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中国史小話集③

【張楊のこと】
張楊は中国・東漢(後漢)末期の軍閥の一人である。
霊帝の時代から武勇で知られ、何進に仕えた後、独立した。献帝が長安から逃れてくると、献帝を奉じて洛陽に赴こうとしたが、諸将との仲が悪く果たせなかった。
建安元年、押し入った賊に殺害された。家臣の楊醜に殺害されたという説もある。
張楊は『三国志』に立伝されているが『後漢書』には立伝されていない。『三国志』は曹操を魏の初代皇帝としているので、曹操と関係があった軍閥の多くが『後漢書』と重複して立伝されているが、張楊は曹操と絡んでおらず、『後漢書』ではなく『三国志』のほうに立伝されているのは不思議である。

【隠れた名臣・潘濬】
潘濬は三国時代・呉の政治家である。
元は劉表の家臣で、後に劉備に仕え、関羽とともに荊州の守備に就いていた。関羽が死んだ時、潘濬は家にいて泣き崩れていた。孫権は使者を派遣して帰順を促したが、ベッドにしがみついて離れないため、使者は仕方なくベッドに潘濬を括りつけて連れてきた。そこで孫権自ら説得し、潘濬は孫権に仕えることになった。
当初は武将として荊州の軍事を一任された。その後も多方面で活躍し、孫権が即位後に酷吏の呂壱を重用し、政局が乱れた際には、陸遜とともにその排除に動いた。
陳寿は『三国志』呉志潘濬伝において最大級の賛辞を送っている。

【史実の幽州牧】
『三国志演義』では劉備の故郷・幽州の牧(知事)は劉焉になっているが、史実で劉焉が幽州牧になったことはなく、州牧職が設置された時点ですぐ益州牧になっている(『三国志演義』では子の劉璋と劉備が親しく交遊する理由にされている)。実際に幽州牧になったのは、同じ宗室の劉虞である。
劉虞は名士で人格者でもあり、人によく慕われたようだ。一時、袁紹が献帝を廃位する計画を練った時、皇帝即位を打診されているが、断っている。
北方の異民族の処置を巡って公孫瓚と対立し、殺害されてしまった(公孫瓚を除こうと挙兵したが、返り討ちにあって敗北し、公孫瓚に処刑された)。

【禁酒令の逸話】
干ばつで禁酒令が出たとき、酒造道具を持っていただけで告訴され逮捕された者がいた。その後、劉備が街を歩いていると、男女二人連れを見た簡雍が「あの二人は淫行の罪に及ぶので逮捕するように」と進言した。劉備が「なぜわかる」と訊くと、簡雍は「あの二人は淫行の道具を持っております」と答えた。劉備は大笑いし、酒造道具を持っていたものを釈放した。
『三国志』蜀志簡雍伝にあるエピソードである。簡雍は関羽、張飛とともに旗揚げ当時から劉備に仕えた最古参の家臣。文官として外交等に従事した。古株ゆえ尊大なところがあり、宴会時に一人で長椅子を占領したりしていたという。

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