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中国史小話集④

【周王朝概説】
周は中国の歴代王朝で最も長く続いた王朝だが、異民族の侵入で一度滅亡している。その後、都を移して再興されるが、都の位置から滅亡前を西周、再興後を東周という。
周は親族や有力家臣に各地を分割統治させる封建制を採っていたが、東周後期になると周王室の権威は弱体化し、各封国がそれぞれ力を持つようになる。この時期は前後期に分かれ、前期を同時代の歴史書から「春秋時代」と呼ぶ。この時期は各封国の君主がリーダー「覇者」を目指した時代であった。
時代が進むと弱肉強食の風潮が強くなり、7つの国に集約される。この時期を「戦国時代」という。この時期になると周王室はかろうじて息をしている状態で、最終的に秦に滅ぼされてしまう。この時代は七雄と呼ばれる7カ国がすべて王を称し、春秋時代には残っていた周王室への敬意も失われたようである。
戦国時代は本格的な国盗り合戦となり、最終的には商鞅の改革で国力をつけた秦によって統一されることになる。

【尚書の話】
『尚書』とは四書五経の『書経』の古名で、秦の穆公の名が見えることから、紀元前659年(穆公の即位年)以後の成立とされる。内容の異なるテキストがあり、『古文尚書』『今文尚書』と呼び分けているが、現存する『古文尚書』は由来に偽りがあると断定されており「偽古文尚書」とも呼ばれる(本来の『古文尚書』は現存しない)。
秦の始皇帝の時代、博士の伏勝は焚書坑儒から『尚書』を守るため壁に塗り込んで隠していた。漢代に入り、取り出すと一部が失われ全体の29篇が残っていた。これは秦代に成立し漢代に用いられた今文(隷書)で書かれていたため『今文尚書』と呼ばれた。
『古文尚書』は漢代の通行字体の隷書ではなく、先秦代の古い文字で書かれていたためそう呼ばれるようになった。『古文尚書』は複数あるが、孔子の旧宅で発見された『尚書』には『今文尚書』にない篇があったという。この孔子家伝本のほか、宮中にあった中古文本、河間王劉徳所蔵本が知られる。

【簒奪考】
曹操も司馬懿も、自身は簒奪をしなかったが、そのお膳立ては生前におおかたし終えている。
曹操は「周の文王たらん」と言っていたので、将来の子孫による簒奪を予期していた可能性が高い。
司馬懿のほうは簒奪まで考えていたかは微妙だが、高平陵の変以降の行動を見るに、司馬氏に有利になるよう動いていたことは事実である。
ただ、司馬氏の場合、本格的に簒奪を考え出したのは司馬昭のように思われ、司馬懿、司馬師は自身が魏の実権を握るところまでしか考えていなかった気がする。
司馬昭が簒奪を考え出したのは曹髦暗殺の前後のような気もする。この頃になると司馬氏に与する魏臣も多かった。案外、賈充あたりが簒奪を勧めたかもしれぬ。実質晋臣として活躍した中で、司馬昭に簒奪を勧めそうなのは賈充と荀顗くらいしか思いつかない(後は王沈?)
衛瓘、羊祜、張華あたりは簒奪を唆しそうな人物ではないし、王祥は最後まで魏と晋の双方に気を遣っていた。山濤や王戎にもそんなイメージはない。

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