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中国史小話集⑬

【蔡義】
蔡義は中国・西漢(前漢)の学者・政治家である。『詩経』を学び、抜擢されて昭帝に『詩経』を講義した。
宣帝の代になって丞相に昇ったが、この時すでに80歳を超え、両脇を支えられてやっと歩ける状態であった。当時、外戚として権勢を誇った大将軍の霍光は、「皇帝の学問の師を勤められた蔡義殿であれば、丞相にふさわしいではないか」と言ったが、「霍光は自分が御しやすいよう、老齢の蔡義を丞相に据えたのだ」と言う者もいたという。霍光はそれを聞くと、「そのような言葉は断じて人の耳に入れてはいけない」と周りの者に言った。 陽平侯に封じられたが、無嗣断絶した。

【傅玄】
傅玄は中国・三国時代の魏から西晋時代に活躍した政治家で、文学者でもあった。 博学で音楽や文章に通じていたが、剛直な性格で、他人の過失を認めることができなかったという。たびたび上奏して多くの政治不備を正し、綱紀粛正を訴えて西晋の武帝(司馬炎)に称賛された。
傅玄は関西で言う「いらち」な性格で、上奏する際、時間切れで翌日に回されると、そのまま宮殿内で徹夜して待ったという。 羊氏(司馬炎の伯父・司馬師の妻)が亡くなった際、葬礼の席順をめぐって争いになり、関係者を面罵したため、免職となってしまった。 その後まもなく、無官のまま死去した。

【司馬孚】
司馬孚は中国・三国時代の魏の人物で、司馬懿のすぐ下の弟である。司馬師・司馬昭の叔父、司馬炎の大叔父に当たる。
司馬氏が実権を握るきっかけになった高平陵の変では兄に協力して曹爽一派の排斥に尽力したが、司馬孚自身は魏の皇室に対する忠誠が極めて高く、曹髦が司馬昭排斥を試みて逆に殺害された際は、群臣が司馬昭を憚る中、陳泰と共に曹髦のために泣いた。司馬炎が曹奐に禅譲を迫った際も、退位した曹奐の手を握って泣いたという。
司馬炎はこの大叔父を厚遇し、安平王に封じたが、司馬孚は鬱々として楽しまなかった。 93歳という当時としては驚異的な長寿を全うした。

【陳寿異聞】
『三国志』を編纂した歴史家・陳寿はことさら毀誉褒貶が激しい人物だが、その理由のひとつに、親の服喪中に病気になり、下女に薬を調合させていたのがバレて非難されたことがある。
当時の儒教的価値観では、服喪中は自身の身体を顧みず哀悼を示すのが美徳とされていて、それに反して我が身を労ったことで「親不孝者」のレッテルを貼られてしまったらしい。そこから派生して、人格に難のある人物であるという逸話が生み出されたものと思われる。
知識人の間で「蜀漢正統論」が高まり、陳寿が『三国志』で魏を正統としたことに非難が集まったのも要因のひとつである。

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