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轆轤町についての異論

京都市に轆轤町という地名がある。松原通大和大路にある地名で、六波羅蜜寺などに近い。陶芸(おそらく清水焼)の轆轤引き職人が住んでいたことが町名の由来とされるが、これは寛永年間に改称されたもので、元は髑髏町と言ったという。
不気味な名前だが、この付近は京の三大葬地に数えられる鳥辺野の入口にあたる。この時代、きちんと弔われるのはある程度地位のある人だけで、庶民は野ざらしであった。鳥辺野では火葬が行われていたので、収骨されずそのままにされていたのだろう。野ざらしの髑髏が散乱するところということで髑髏町になったということか。

轆轤町付近には六道の辻がある

ただ、私はこれに異論を唱えたい。理由は、平安時代後期になると六波羅が町として発達してくるからだ。そう、平氏が居館を築いたのである。だからといって、ここが鳥辺野の入口であること、六波羅蜜寺などがある寺社地であることに違いはないのであるが、鳥辺野の入口とはいえ、都市の外郭として開発されるところに髑髏が大量に散乱していたとは考えにくい。実は、私は「髑髏町」ではなく「六道町」が元の名前ではないかと疑っているのである。
なぜかというと、近くに六道を冠した名を持つ六道珍皇寺があるからだ。葬地・鳥辺野の入口であれば、そこが六道の辻に見立てられていてもおかしくはない。だからこそ、珍皇寺は寺名に六道を冠しているのではないか。六道珍皇寺には小野篁が境内の井戸を使ってこの世と冥界を行き来していたと伝わっていて、門前には子育て幽霊ゆかりの飴屋がある。六道の辻にふさわしいではないか。

六道珍皇寺

ただ、この仮説は机上の空論であり、根拠がない。もし、江戸以前の古記録に「髑髏町」の名が出ているようであれば、簡単に崩れ去ってしまう。ここは単なる言葉遊び程度に思っておいていただきたい。


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