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夏の音

新幹線から降りて、改札から出ると妹が車で迎えに来てくれていた。
在来線に乗り換え、最寄りまで移動してタクシーの利用も考えていたので、『何時到着?』という妹からのメッセージに、朝九時前の到着時間と、迎えに来てもらえるかどうかの遜ったメッセージを送り、朝の六時前に家を出た。

父からの連絡を受け祖母が亡くなった事を知り仕事関係の人に連絡を入れた。
翌日、昼には斎場に行かなければならないので、朝飯兼昼にと弁当を買い、新横浜から東海地方の某駅へ。車内は割と埋まっており、予約していた三人席の通路側に座った。
車内では男児が通路を何度も往復し、持て余したエネルギーを発散するかのように走り回っていた。
暫くすると妹が起きたようで、了解とのメッセージが送られてきた、安堵しつつ、イヤホンを持ってくるのをどうやら忘れたようで、本を読む気にはなれず暫く目を閉じていた。

新幹線を降りると、田舎特有の新鮮な朝の空気の匂いがした。
妹とは年末顔を合わせたので、半年ぶりくらいか。
しばし考え、後部座席に乗り込むと実家まで走りだした。
そのまま実家まで送って貰い、荷物を置いて、服を着替えた。
十年以上前に買った礼服がまだ着られた事に安堵しつつ、朝食もまだだったので、新幹線の車内で食べられなかった弁当を食べた。
葬式の後、火葬場まで行き拾骨、そのままお寺に行き初七日法要の為、夕方までは確実に戻っては来られまい。

葬儀場は家から車でも五分程の場所で、建物の入り口ドアを入ってすぐ式場で受け付けの人も見える場所に居る状態というコンパクトさに驚いた。
家族葬の為、限られた親族のみの集まりだった。
通夜には参加出来て居ないため父に棺の顔の部分を開けて貰い祖母の顔を見た。
穏やかで綺麗な顔をしていた。最後は殆ど食事が出来なかった事もあり、随分痩せてはいたが、ただただ眠っているかのようだった。

式は滞りなく行われた。
読経の中焼香と合掌し、感謝と別れを告げた。
家族親戚で棺桶の中を花で一杯にし、出棺となった。

火葬場で最後の別れを告げ棺を見送り、一時間ほど待合室で待機し拾骨となった。
そのままお寺に移動し初七日法要を行い、再度読経の中焼香と合掌が行われる。
浄土真宗ではよく用いられる蓮如上人の白骨の章の話と、その全文を読み上げ。最後にお茶を頂き今後の予定についての相談などをして帰宅の途についた。

この辺り家によってやり方や違いがあるのだろうが、昔に比べると大分コンパクトで小さめの式になったように思う。浄土真宗の式であったことや家族葬であったこともあるかもしれない。
昭和初期から第二次大戦を生き延びて今日の私がいるのは間違いなくこの祖母が居たから。深く感謝をしたい。

微かに祖父母を通して自分の中で残っていた昭和という時代が失われていく。本家(ほんや)と呼ばれていた大きな土間のある屋敷は、住む人が居なくなり、取り壊される事が決まっている。
自分が幼少期に訪れた際、既に使っていない部屋が数多くあり、仏間に並んでいた歴代の当主のモノクロの顔写真など途方もない年月の積み重ねに、恐ろしくも感じたあの家も失われてしまうのだろう。
自分の世代は葬式というものはどうなっているのだろう。
今よりももっと多様なものになっている可能性もあるかもしれない。

東海地方の田舎と関東の在所では蝉の鳴き声が違うという事を、鳴き声を聞いて思い出した。
シャワシャワと鳴いている。クマゼミだ。
そういえばいつの間にか年末のみの帰省になり、夏を実家で過ごすのは久しぶりだった。
夜はカエルが鳴いていた。実家の周り四方は田んぼに囲まれているので夏といえばこのカエルの大合唱。
四面楚歌とはこのような感じなのかもしれないと思ったりもした。懐かしい故郷の唄だ。
(この鳴き声は幼少の頃から慣れ親しんだものなので、五月蠅いと感じたことはない。)
しばらくすると実家で暮らした年月よりもそれ以外で過ごす時間が長くなる日が来るだろう。それでも夏の音の印象はいつまでも変わらない気がした。


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