異なる環世界に生きる

部屋の中に蜘蛛がいる。

私は、こんな部屋の中では食料となる虫の数は部屋の外よりも少ないし、人間に殺されたしまうのだから何とこの蜘蛛は愚かなのかと思う。

そして、私は蜘蛛を殺す。

蜘蛛を殺した私は地獄に落ちても糸を垂らしてもらえず、浄土へと逃れることはできないのかもしれない。

それはさておき、なぜ私は蜘蛛を愚かと思うのか。

それは私が部屋の中と外を明確に区別しているからである。

私の認識下では、これまでの経験から、住居ないし建物の中と外を区別している。部屋の中に虫は少なく、部屋の外に虫は多いと考えている。よって、部屋の中で獲物を探す蜘蛛を、狩猟という目的から非合理的であると感じ、愚かと思う。

これには、私が世界を三次元的に捉える視覚と、蜘蛛が獲物を探しているという前提を置き、前提から蜘蛛の行動を観察し、その結果非合理であると判断する思考力を備えていることが必要である。また、部屋の中と外は異なる環境である、部屋の中には虫は少ないという「常識」もまた必要である。それらがインパルスで繋がれ、蜘蛛を愚かと断じる。

では、蜘蛛からしたらどうか。

そもそもハエトリグモという一部の種類を除き、ほとんどの蜘蛛はピンがぼけた状態で世界を見ているとされる。また、蜘蛛には私と異なり部屋の中と外を区別する必要も道理もない。蜘蛛からすれば外を徘徊するのと中を徘徊する行動は同義である。

それを私は、勝手に蜘蛛も私と同じように世界を見ていると考え、私と同じように思考できない蜘蛛を愚かと断じているのである。

彼我の視点の違いに立てず、言説を発する姿は何とも愚かである。

生物は異なる環世界に生きる

生物学者のユクスキュルは、異なる生物種は全く異なる世界に生きているとし、それを「環世界(Umwelt)」と呼んだ。

良く知られる例がマダニである。

マダニには視覚と聴覚が存在しない一方、嗅覚や触覚が優れている。そのため彼らは木の上に上り、下に熊などの動物が通過したことを感知し木から落下する。その後落下先の動物に寄生し、血を吸うことで生き、子孫を残す。

我々は得てして、このように視覚のないマダニを下等とみなすが、そうではない。マダニが触覚や嗅覚に頼り生きるように、人間は視覚にひどく依存して生きている。あなたは仮に目隠しした状態で、マダニのように森で生活だろうか?

その意味で、異なる生物種は単に異なる環世界に生きているのみであり、優劣など無いのである。

世界は万人により異なる

では同一の生物種である人間は、万人が同じ環世界に生きているのだろうか?

人によってまず身長が大きく異なる。視力も異なる。聴覚や触覚も異なる。所謂「霊感」の有無もあることから、第六感も異なるのであろう。高身長の人間と低身長の人間では見えている世界は大きく異なる。視力のない人間とそうでない人間では、聴覚も大きく異なるのであろう。身長、体重、聴覚、視力が全く同一の人間は恐らくこの世には存在しない。

まず身体的な意味で、全ての人間が同じ認識の世界に生きているとは言えない。

次に文化や経験、常識の問題がある。

あなたは父親と聞いてどのような印象を持つだろうか?

肉親の父親を思い浮かべたかもしれない。そこには好悪の感情も含まれただろうか。はたまた、肉親ではないが、何か精神的に強いつながりのある年上の人間を想起したかもしれない。尚、当方は母子家庭であり、精神的なつながりのある年上も認知がないため、「無」という感情を抱く。

このように、言葉一つをとっても、その認識は経験や環境に大きく左右される。

思考という観点でも、やはり万人は異なる世界に生きている。

世界をありのままには認識できない

そもそも我々は世界をありのままには認識していない。

私という存在と、私以外の世界の間には多くのフィルターが存在する。

まず、私の眼は限られた範囲の光線しか捉えていない。蝙蝠は赤外線を感知できるが、私には全く見えていない。日々の生活で常に視覚を頼りにしているにも関わらず、多くの情報はそぎ落とされている。

視覚に限らず、上記に記した文化や経験も、世界をフィルタリングする。

本来道はすべて道であるはずだが、国土強靭化計画により、日本の多くでは歩道と車道が区別されている。本来であればどのような道も車が通る可能性はあり、注意が必要なのだが、日本では歩道に車が侵入することは殆どない。そのため我々はこれまでの経験から、車道は危険、歩道は安全と無意識下で認識し、安全な歩道を歩く。地面でしかないものを道と定義し、道を更に安全・危険で分類している時点で、我々は世界をありのままには認識していない。

このように世界の認識は、身体や思考のフィルターを受けて構成される。

人が自分とは異なる世界に生きることを知覚する

我々の生きる世界がフィルターを通したものであり、そのフィルターが万人よって異なる以上、全ての人間はそれぞれが全く異なる、閉じた環世界に生きているのかもしれない。

異なる世界から、フィルターを通して同じ情報を見ているのだから、結果として情報の見え方が異なることは当然と言えよう。

得てして、私は別の人が自分と同じように知覚し、判断し、行動すると考えてしまう。

大きな誤りと言える。

同じ情報を見て全く同じ感想を持つ個人など存在しない。自分の発話や記述を、自分と同じように他人が認識するなど、そもそもが不可能なのである。

しかし、上記の前提がない中では、相手が自分と同じように感じることがアタリマエとなる。そのような状況下でのコミュニケーションでは、当然そのアタリマエは裏切られるため、憤りや怒り、はたまた相手を軽蔑するという姿勢が生まれてしまう。

例え同じ文化圏とされる地域に生きているとしても、自分と他人が同じ認識に至ることはない。異なる文化圏の場合は言うまでもないだろう。

自身の言葉が伝わらない原因は、相手の頭が悪いことにはない。そもそも相手が自分と違う世界に生きていることを知覚していない、その浅慮な認識にある。浅慮が前提のコミュニケーションは、残念ながら地獄しか生まない。

文化人類学のススメ

ではどうしようもないのかと言えば、恐らくそうではない。

ユクスキュルは、人間は動物的な感覚と思考力を持ち合わせた存在であり、異なる環世界を行き来可能であるとした。

ユクスキュルの言説とは離れるが、人間は言葉や文字、身体動作を通じた「コミュニケーション」によって、他者の世界にアクセス可能な存在であると思う。そして、他社の世界がどのように構成されているのか、論理的及び感覚的に想像できる存在でもある。

大切なことは、相手がどのような文脈に存在し、どのように世界を認識しているか、分からない中で考え、その世界に即した文脈でアクセスすることである。相手の言説や思考を自分の価値基準でジャッジし、自分のメガネで認識するのではなく、そのメガネを外し、相手の立場で物事を考える必要がある。

相手の立場に立って考える。

陳腐な響きではあるが、それが他者とコミュニケーションする唯一の方法である。

それを体現する学問が文化人類学と言える。フィールドワークをもって対象社会に入り込み、自らのアタリマエを破壊する。

多様性が求められるこの世界で、一つのヒントがあるのかもしれない。もっとも、この姿勢もまた、私のメガネで文化人類学を見ているのだが。


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