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多様性を認める社会と未消化の反吐

初投稿です。思考を書き散らした雑文です。

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多様性を認めるという言説が様々な角度から謳われている。

ビジネスの目線で言えば、イノベーションの観点から。

社会道徳的には、人権的観点から。

多様性を認めることは私のようなミレニアム世代にとって金科玉条と化し、否認が即ち議論参画への否認につながる。

現代を平穏に生活する上では、多様性の容認はオプションではなく前提と言える。

一方で、多様性の言説には消化しきれない違和感を感じている。多様性の容認を肯定しつつも感じる違和感を、ここに記したい。

1.多様性の解釈

多様性の定義は、信頼度の高い出典として著名なWikipediaによると下記の通りである。

「多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に『いろいろある』こととは異なる」

上記の説明よれば、Wikipediaそのものが多様性の象徴として解釈可能な気もする。

ともかく、多様性とは、「様々な人種、性的嗜好、言説、国籍、宗教などの各種性質が、ある一定のグループのまとまりにおいて存在している状況」と解釈できる。

例えば会社内において10代も60代もいる、男性も女性も、アメリカ人も日本人も中国人もおり、そうした各性質が群としてカテゴライズ可能な程度存在する状況と考える。

2.社会における多様性の容認の文脈

現代において、多様性の容認は、特に怒りという文脈で大きな意味を持つ。

多様性を容認しない発言や広告、またそう解釈されうる発信を行った場合、その無理解がバッシングの対象となる。例えば下記の例などは2021年5月時点で記憶に新しい(一つ目の例は多様性への無理解というより、ファクト認識の不足への批判も大いにあると思われるが(三つ目の引用を参照)。。。)

このような状況は、今まで確かに存在していたが認知が不十分であった"マイノリティ"とされる性質の群が、SNSの爆発的普及に伴う情報発信者及び提供量の増加、そしてアクティブな受信者の増加という状況から可視化され、それに伴いマイノリティという群にカテゴライズされうる人々の苦痛、悲しみもまた同様に可視化されたことに起因する、と思料する。

このような前提に立つとき、現代における多様性の容認とは、今までその存在が容認されていなかった、または容認が不十分であったと思われる性質の群を積極的に容認する姿勢ないし言動、という文脈で解釈されることが多いと思われる。そして、それに反する言動をとったと解釈された場合、その言動そのものが所謂”マイノリティ"を否定し、苦しめる発言となりうるため、圧倒的かつ純粋な正義感から世間の批判の対象となる。

3.自己定義との違和感

続いて私の多様性の定義に移りたい。そのために、1.多様性の解釈に戻る。多様性とは「様々な人種、性的嗜好、言説、国籍、宗教が、ある一定のグループのまとまりにおいて存在している状況」と解釈した。

ここで正確化のため容認の意味を引用したい

つまり容認とは、端的に認めることのようである。

この二つをつなげると、「多様性」の「容認」とは「様々な人種、性的嗜好、言説、国籍、宗教などの各種性質が、ある一定のグループのまとまりにおいて存在している状況」を「ゆるして認めること」と解釈される。

これが私の多様性の解釈となる。つまり、ありとあらゆる性質の群が存在することを認めることそのものが多様性の容認なのであり、そこに存在してはいけない性質はないのである

ここに立ち、自分の中で前項の批判の状況と、自己定義とで違和感が生じている。自己定義に立てば多様性を認めないという解釈されうる言説もあらゆる性質の群の一つとなり、それは容認されるものと解釈される。しかし、実社会においてはそうした言説は炎上し、排除される傾向にある。

つまり、前項で提示した現代の多様性の文脈においては、多様性の容認が却って多様性を否認しているのでは?という違和感が生じているのである。

4.未消化の反吐

しかし一方で、明らかに存在し、その認知をしているマイノリティを否定する言説に対しては、直観的な嫌悪感を禁じ得ない。これは私がアイデンティティを重視しているためである。

人の持つ性質は、その人をその人たらしめる重要な要素である。それを否定することは個人の存在の否定につながりうる行為であり、それが自分に向けられたら、と考えると恐怖を覚える。

一方で、否定的な言説そのものも、言説の発信者のアイデンティティを構成する要素の一つなのではないだろうか?文化人類学、認知心理学の領域においては、人は自己を他者との相対化によって認識するとされる。自己と異なる性質を持つ他者を否定することも、アイデンティティを構成する手段の一つと考えられる。

私が何故多様性の容認を好ましいと感じるか。それは多様性の容認が各個人の存在の肯定を促し、そしてそれは、自分がより住みやすい社会につながると考えているからである。多様性を容認するとは、どのような言説さえも認めるということなのか。

他者を否定する言説が他者の存在を否定し、その否定がさらに他者の否定につながる。そしてそれらすべては、異なる性質の群として、確かに社会に存在する。この関係性は私の中でドロドロに混ざり合いつつ、消化しきれない不快感として、確かに存在する。

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特に示唆はありません。読まれた方はすいません。。

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