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ラクな行動は脳死で起きる

 人間だれしも、ある程度のことはラクがしたいと思っているはずである。現代社会は忙しさにまみれているので、自由に使える時間がないという風に錯覚してしまいがちだ(これは自分の中に異論があるのでこういっているのだが)。その自由を何とかこじ開けたいがために、作業的な活動はラクをするようにシステムを組む。同時並行で行えるような仕様にすることで全体にかかる時間を短縮したり、作業工程の省略や、無駄だと思うことを極限までやらないことで、圧倒的に少ない労力で用事を済ますことが多い。

 もちろんそうして試行錯誤することで、かなりの余白を生み出すことができるだろう。それだけでなく今まで、作業的な活動に充てていた時間を、創造的な時間に充てることができるようになるので、非常に有意義だと思えて、自分に対する成長のきっかけを手に入れることができるかもしれない。

 ラクをすること自体を否定したいわけではない。私も多くの場面でラクをすること、省略することを考えて行動していたりする。

 ただ、これは、それなにり時間をかけてやりたいこと、こだわりたいことがあるということが前提であることが必要である。丁寧にやりたいことがないのは自由な時間が少ないから、という風に言って、先にラクをすること、時間を作ることを考える人がいるが、それは全くの逆である。

 そういった動機で、時短をしたところで空虚な時間ができてしまうだけなので、虚しさが募るだけである。せっかく早くできても、その見返りとしての自由な時間を有意義に使うことができなければ、無駄は無駄のまま時間という形で、ありありと存在し続ける。

 そして、ラクな行動は、行動を機械的に行うことができるようになることだということを忘れてはならない。

 つまりどういうことかというと、ラクな行動だけを求め続けてしまうあまりに、人間的活動ができなくなり、人間的満足感からどんどん遠ざかってしまうということである。

 人が満足感を得られるのは、思考すること、感情に訴えかけること、言葉を介したやり取りがあげられると思う。ラクをするということは、ここに至るまでには確かにそれらを行うことにはなると思うが、ひとたびラクを覚えてしまえば、その行動にすがり、上に挙げた人間的な行動というものの一切をとる必要がなくなる。

 これが所謂、「脳死的行動化」である。
 ラクをしたいと思う前に、こだわりたいこと、やりたいこと、人間的充実を得るための行動がその先にあるかということを考えてみてほしい。

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