小説は読めるけど論説文は読めない現象
もっぱら読む本といえば小説専門だった私だが、つい最近ちょっとした興味で『日本の統治構造』という、所謂「論説文」を読もうと思い、数十ページ読んである事実に気がついたのである。
「なんかすぐ飽きる。ずっと読んでられん」
今回はそんな経験がある、もしくは現在進行形でそうであるという人に向けた、個人的な解決策を述べた記事だ。
小説はすらすら読めるのに、論説文になると途端に理解に時間がかかり、数行前を読み返すこともしばしば……という症状が起こった時、私は最初、「自分の理解力が無いんや」、と思っていた。(まあ、半分正解かもしれないが……)
しかし、論説を読み、それに飽きて小説を読む、なんてことを繰り返しているうちに、小説を夢中になって読んでいる時と、論説を退屈しながら読んでいるときで、頭の使い方に違いがあるらしいことに気づいた。
(こんなことが浮かんでしまう時点で飽きている証拠である)
小説を読んでいるときは、その物語内の情景──舞台がどうなっているかや、どんな人物が会話、行動しているかなど──が、イメージとして頭の中に常に存在するのである。
これは、別に意識してそうしているわけではなく、習慣的に無意識にそうなるようになってしまっているらしい。
対して、論説を読んでいる時には、そういうものがない。あくまで「文字」を追うだけであり、イメージなんてものは存在しない。
もちろん、説明されている論理を理解するために、図のようなものを思い浮かべたりはするが、一時的で、常にそうではない。
これらのことから、私は、集中して、楽しく本を読むためには、常にその内容の大まかな「イメージ」が頭の中に常にないといけないのだろうと考えた。
だが、それが仮に正解であったとしても、残念ながら論説を読む時にできるわけではない。特定の家の中とか学校の中とか、具体的な「舞台」は存在しないし、筆者は延々と喋っているだけだ。これでは想像は膨らまない。
そこで色々とネットの記事とかを調べてみて、試してみて、それなりに考えがまとまったので紹介したいと思う。やってみたところ理解もしやすくなったし、集中もできた。
それは、「今読んでいる部分に筆者が賛成しているか反対しているかをつにね把握しながら読む」ということだ。
おそらく、日常的に論説を読んでいるような人は、無意識に、というか常識としてこれができているのではないだろうか。
論説は言わずもがな一般論と筆者の持論の組み合わせ(対比)で成り立っているわけだが、文章一つ一つとしてみると、それがわかりにくい。
なので、「言ってることは理解できても、それが全体の中でどんな機能をしているのかがわからず、結局筆者の言いたいことがわからない」という事態が発生するのだと思う。
そこで、常に「筆者目線」で文章を理解することで小説を読むときのようなイメージ、ここでは、「筆者の理論の全体像」を、常に、途切れずに頭の中に存在させながら読むことができる。
これによって、物語に没頭するときのような体験が、私の場合出来るようになった。
物語の中で「物理的な因果関係」だったものが、
「論理の因果関係」に置き換わったと言えばいいのだろうか。
まとめ
まあ結局のところ、興味を持って、楽しく読むのが一番である。それができていれば自ずと適切な読み方は身についていくだろう。
あとは、読む目的をある程度明確にするのも大切だろう。
私のように娯楽目的で読む場合には理解さえ出来ればいいが、例えば参考書を読む場合なんかは話が違ってくる(そもそも参考書は論説文ではないが)
この場合は理解に加えて詳細な記憶と、それを自分で「応用できる」ようにする必要がある。
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