見出し画像

わたしの小説のやり方08(その2)

 担当編集者イワモトくんとの対談を終えてしばらく、何となくあれこれ考えている。やる前から「一読してもわからない」とこれはイワモトくんの言葉で「それをきっかけに何か話せないか」とはじまったのがあの会だったので、読んでわからないとはどういうことか、が話せると思ったのだけど話せていたのかどうかはわからない。しかしあの会の中で「初対面、初読、とにかくはじめての感触感想を大事にする」というような言葉をイワモトくんが先輩に言われた言葉として持ち出して来た時から、どうやらわたしの頭は動いているのだ。そしてそれは「わかる、わからない」を超えた何かに向かおうとするのだ。
 はじめての感触を大事にするとは一体なんだ。

 ラボで体験するのはまさにその逆だ。わたしのする「ラボ」はツイッター(X)に書かれたものを読んでもよくわからないし、短編集である『FICTION』の中の短編『ラボ』にもそれなりに事細かくラボでの状況状態を書いているのだけど、読んでも、というか読むからよくわからなくなり、参加者は来たとき緊張している。はじめてなら尚更そうだ。
 緊張した人間は無表情だ。無表情はわたしには不機嫌に見える。子どもならともかく大人の無表情、それにより不機嫌と誤解するわたしの参加者への所見は最悪だ。最悪を何が凌駕するかというと、それなのに来ている、というその最も直接的な行動への驚きだ。何をするのかよくわからない場所へ、しかも無料じゃない、高くもないが安くはない、そこへしかし来ている、という事実がわたしの「無表情だな、怖いな、嫌なのかな」という理屈を通らず始まる誤解を諌める。そして実際、参加者の顔はラボが進んでいくうちに激変していく。赤みがさし、赤ん坊のような、その人本来の顔になる。本来の顔になった人間を嫌うのはほとんど不可能だ。赤ん坊はどれも可愛いのと同じアレが発動する。しゃべらずにいればの話ではあるけれど。しゃべるとまた局面は変わる。しゃべればくだらないことを言うんだな、がはじまる。ここからの山はまたひとつ別の山となる。

 わたしには全くこれは「小説」なのだけど、今ここで小説にどう繋げていいのかわからないのでもうしばらくラボでの話を続けてみる。

 人のする話は「層」になっているから、表層はなるべく早く突破しなければならない。表層なんかだいたいどこかで聞いたような話でしかない誰でも。それは人間の知恵だから仕方がない。「差別」ですらそうなのだろう。かなしい知恵なのだろう。時間はラボの場合ないので、少し荒っぽい反応をわたしはする。「それはいらない。それはつまらない。聞いた気がするから(聞いてなどいないのに)先を話してください」等々。昔は七周目の自己紹介、なんていってやっていたこともあった。七周目だから「初めまして」も名前も年も出身地も仕事も信心するものが何かですらもしかしたら済んでいるはずで、なら何をしゃべるか。一つ覚えているのはこんなことをいった人がいた。
「昨日コンビニで牛乳買おうと思ったらなくて、ないのかと思って、どうしようかなと思ってコーヒー牛乳にして、帰って飲んだら眠れなくなった。牛乳が好きなわけじゃない」
 話の細部は絶対おぼえ間違えてはいるがだいたいそんな話だった。わたしは顔も思い出せる。そう呼びはしなかったが彼はわたしには「牛乳」だ。わたしが残念なのはその「牛乳」の所見がどうだったか。わたしは初見の「牛乳」を忘れてしまっている。初見時には彼は「牛乳」ではなかった。ただの「男」だった。おそらく無表情の不機嫌な。それが十年以上経ってまだわたしは彼を「牛乳」として記憶し、こうして思い出せている。子供のときのおぼえ方と同じだ。
 わたしは彼を理解したといえるのだろうか。名前も知らないのだ。もちろんどのような人生を送って来たのかも、今送っているのかも知らない。世間ではそれは理解したとはいわない。しかしわたしには彼の存在が今もありありとある。何なら彼をよく知る人より、ある部分では、ある。それは何だ。

 小説を読むというのはそのようなことではないのかとわたしは考える。大変な読み間違いをしたり、本自体を間違えていたりもするが、読んだ、というのはそういうことではないのか。後の自分のある考えや行動は実はある小説を読んだことに起因しているのだけど本人にはその自覚がない、というような。なのにあの小説どうだったと聞かれても「読んだ気はするけど何だかよくわからなかったな」と答えているというような。

 読めた、読めない、としかいえないからそういうしかないが、そんなことよりずっと別の、奥なのか底なのかで人間は何かを感知していて、感知した自覚もない。

 作品はそこに触れて来たのか、は、しかし話せるのか。話せたのか。作品について話すとしたらそこしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?