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よふきゆさんがみたいゆへから

戦争が始まって、何も書く気になれなくなった。

それで、本を読んでいた。
声を出して読んでいた。

天理教の歴史の本だった。

宗教に逃げるつもりはない。

けれども、「人間は倒し合うためにでなく助け合うために生まれてきたのだ」という「当たり前のこと」を「当たり前のこと」として私に教えてくれたのが誰だったのかといえば、結局は私につながる人々が「おやさま」と呼んできた、中山みきという人だった、ということになるのだと思う。

そして私はそのことが世の中では全然「当たり前のこと」になっていなかったのだという現実に、今さらのように茫然とさせられている。

だったらそれを「当たり前のこと」にすればいい、と、たぶん中山みきという人は、こともなげに、言うのである。

それが「できる」ということを自分の生き方で証明してみせたのが、中山みきという人だった。そのために、「倒し合い」が「当たり前」でなければ困るような人間たちから散々に迫害され、嘲笑され踏みにじられ最後には命まで奪われても、「陽気」に胸を張って自分の信じるところを貫き通した人だった。そういう人が、と言うべきか、そういう人は、と言うべきか、「いた」わけなのである。

そういう人を前にしてしまうと、「泣き言」が言えなくなってしまう。

わかるよふ むねのうちより しやんせよ
人たすけたら わがみたすかる

分かるよう胸の内より思案せよ
人助けたら我が身助かる

「おふでさき」三-47

むりにどうせといはんでな
そこはめい/\のむねしだい


無理にどうせいと言わんでな
そこはめいめいの胸次第

「みかぐらうた」七下り目

そう神さんは言うてはるで、と、中山みきという人は、言うてはったらしい。とりあえず、私の家の「神さん」が、「死んでから幸せになりたければ戦争で人を殺せ」みたいなことを要求してくる「神さん」でなかったことは、私にとって、ラッキーなことだったのだと思う。

けれども、それだけに、「うっとこの神さん」というのは恐らく、世界で一番「厳しい神さん」なのである。「どうするかは自分で考えろ」としか言ってくれないのだから。「神さん」のくせに。

まあ、もとより、「神さん」という「もの」を「信じた」ことなど、私は子どもの頃から一度もないわけなのだけど。そして家族や親戚の姿を今までずっと見てきても、どうも本気で「信じて」いるようには思えないわけなのだけど。

でも、やっぱり、「ひながた」だけは「通って」おくしかないように思う。「ひながたを通る」というのは、天理教用語なのだけれど、平たく言うなら「中山みきという人が生きたその生き方を手本として、自分も同じ生き方を歩む」ということを意味する言葉である。

「神」にそうしろと言われたからではない。

中山みきにそうしろと言われたからでもない。

私がそうしたいから、そうするのだ。

いまウクライナで殺されている人たちは、自分たちがなぜ「こんな目」に遭わされなければならないのか、絶対に「わからない」と思っているはずだと思う。私にも、わからない。そのことが口惜しい。

それを「説明」できるような人間は、みんな人でなしだと思う。なぜならそんな「説明」は、ウクライナで今この瞬間に数しれない人々が「別の人間たち」から殺されているという「現実」に、「合理的な理由」を与えるための「説明」にしかなりえないはずだからである。そんなことに「合理的な理由」など、あってたまるものか。

それにも関わらずテレビも新聞もネットのニュースも他のいろんなnoteの記事も、「ハシャいでる」としか形容のしようがないテンションで、その「説明」ばかりを競い合っている。その全部が「人殺しの言葉」に、私には聞こえる。そしてそうした人殺したちの言葉に囲まれた状態で、それを突き破ることができるような「自分自身の言葉」を、私は自分の中に何ひとつ見つけることができない。そのことが、たまらなく口惜しい。

結局私に残されているのは、「人間は倒し合うためではなく助け合うために生まれてきたのだ」という、物心ついた時から自分のそばにあった「当たり前の言葉」だけなのである。そして今の私はもはやこの言葉の中にしか、「自分が生きていていい理由」を見出すことができなくなっている。

そしてこの言葉が、中山みきという人が殺された後にも「殺される」ことなく「生きた言葉」として私の世代の人間たちにまで引き継がれてきたのは、どんな形であれそれを「守り抜いて」きた人たちが存在したからだったのである。「ひながた」を実際に「通って」みせた無数のそして無名の先人たちの歩みが、その言葉を「生かし続けてきた」ことの結果だったわけなのである。それがどんなに「大変なこと」だったのかということを、たぶん私は生まれて初めて、思い知らされている。

だったらせめて、自分の次の世代の人たちにその言葉を引き継ぐという責任だけでも果たしておかないことには、私という人間はもう一生、胸を張って生きることができないように思う。

なので、当面はそのことのために生きたいと思っている。「当面」と書いたのは、その先にまだ、やりたいことが残っているからである。

けれどもまずは「やるべきこと」をやりきっておかねばならないと思っている。

この世界が地獄であるなら、それを極楽に「変える」しかないのである。

それが、人間の仕事であるはずだと私は思っている。

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