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舞台というところから

先日の2/4(土)にSTスポット横浜という場所で『ラボ20』という企画のコンテンポラリーダンスを鑑賞しに行きました。立て続けに3組の公演を観たので忘れぬうちに感想を綴っておかねばと思います。

そもそも私はダンスや舞台芸術については全くの素人ですが、専門の建築分野との距離や表現形式の相違などを考えながら観ることが楽しく今回も同じようにぼんやりと観ていました。何か自分が考えるテーマやきっかけを探すために観賞しているのかもしれません。建築とは別の表現を観たり考えたりすることでどうやら自分の立ち位置を考えることができると思っているようです。

今回、私が予約していた公演時間は19時からの開始で、横浜駅に着いた頃には既に外は暗く風が少しばかり吹く寒い時間帯でした。駅前のオフィス街にある結構な高さのビルの地下1階にある小さなスタジオが今回の会場です。このタイプの会場は初めてで何か秘密の公演のようでワクワクするものがあります。少しだけ早めに着いて今回の公演の案内をもらいましたが、意外と分量があり全てを読むことが出来ずにそのまま開演。いざ。

と、ここから各パフォーマンスについて具体的に綴るのは能力的にも時間的にも不可能なので興味関心のあることを軸にラフに書いてみたいと思います。


まず今回単純に良いなと思ったのが、ダンス ド素人の私にとって3組を一気に観賞できたことは体験として良かった。ジャンルもコンテンポラリーダンスで3組それぞれがテーマも表現も異なっていたので観賞という意味では結構ハードではあった。この表現があまり良くないかもしれないが、素人にとってはそれぞれの差異を感じることができる飲み比べのようなプログラムは分かりやすい。(もちろん企画としてそういう意図ではなく、ダンサーの発掘・育成を目的としているから結果的にそうなっているのだと思う。)

3組は公演順に
①asamicro「Family Unbalance」
②Ne Ne lab「柳葉魚を飠べるからだ」
③森本圭治「Tetris」

どれも興味深いが異なった構造を持つものでそれぞれを同じフレームの中で考えることは難しい。だからこそ身勝手に自分の興味関心のあるテーマを軸にして考えてみたいと思う。

ところで、ちょっと前に舞台とは何だろうか?と考えていた。
それは友人の杉本さん(今回はNe Ne labで出演されている。)が昨年に出演されていた「6steps」という舞台の映像を観てのことだ。2種類の階段がただ単に置かれている空間に対してダンサーとして何かしらの応答関係の中で自由に(?)踊っているというものだ。実際に舞台で公演を観たわけではないのだが、これは楽しいな〜と思った。普段、建築を設計している中で私も階段について考えているが、私はここまで自由な振る舞いを促す階段を作れていただろうか。「階段を置く」という純粋な機能だけが出現した時、ダンサーはその機能を越えることができるのに面白さを感じた。これは古典的でありながらも何となく新鮮なとっても良い舞台だなと思った。たぶん鈴木了二は階段におけるそういった潜在性に魅了されたのだろう。

と、少し脱線したが、つまりは各パフォーマンスにおける舞台とは何か?という軸で考えてみようと思う。

ダンサーであればどこからどこまでが舞台で、何が舞台たらしめているのかということについては日々考えているのだとは思う。少なくとも作品そのものとも言える身体はそれを知覚しているのだろう。

①asamicro「Family Unbalance」では、それぞれのオブジェクトとの関係に沿ってリニアに進行していくような構成であった。散らばったオブジェクトを拾うように関係性の中で踊り、物語を積み重ねるように構築しているような印象だ。それぞれのオブジェクトには物語の要素として文脈を作り出す意味性を与えられ、それゆえ舞台芸術の一方向的な時間の中で劇的にあるいは静かに演出される。1人の観客としてはとても体感的な作品であった。単純にたのしい。

②Ne Ne lab「柳葉魚を飠べるからだ」では、タイトルの通りダンサーが柳葉魚を食べながら踊るという観客のお腹を空かせる設定(?)。パフォーマンスの中で柳葉魚を食べるという面白い設定がある中で、実際のところそれがどのようにダンサーの踊りに作用しているのかは誰も分からない。いや、だからこそそれがダンスなのであると考えると、ダンスとは何と個人的な出来事なのだろうか!そして個人的で内向的であるからこそ外側にある空間に寄与していくのかもしれない。身体を境目にして何か内側と外側をぐるぐると回転・往復しているようなイメージだ。
また、Ne Ne labは2人組みのユニットである。超個人的とも言える独りの食べる行為を中心に置きながらも、その近傍には他者としての相方がいる。本来的とも言える他者としての離散性と、もうひとつの他者的可能性の密着性が交ざりながら構成されている。さらにその2人からより外側の他者(=大他者)としてカメラが設置されている。食べることから連続していく物語の無限的な際限の無さがフラクタルに関係付けられているようにも見える。(少し強引か?)

③森本圭治「Tetris」では、不気味とも言える発作的な動き/踊り(削ぎ落とされた上で残る葛藤のようなもの)が印象的な作品だ。面白いのは動きだけではなく、作品の中でかなり前面に押し出された言葉の強さである。踊りだけ観てほしいのであればもちろん言葉は邪魔だが、そこに強い意味が重ね合わされる。おそらく自身の声で語られた言葉であるが、印象的なのは悩みや葛藤のようなものがあることだ。Ne Ne labとは違って、こちらでは自らの声・言葉を他者化しているような印象だ。内なる声とでも言うのかもしれない。自らの身体と発した言葉の間に空間を立ち上げようとする試みのようにも見えた。

どれも上手く言葉には出来ないけれども、「何を舞台にしているのか?」という視点で観ると自分としてはより発見的に観賞できるかもしれないと思った。asamicro「Family Unbalance」ではオブジェクトというバラバラに分離された舞台、Ne Ne lab「柳葉魚を飠べるからだ」では柳葉魚という食べることのできる舞台、森本圭治「Tetris」では身体に重ね合わせた言葉が舞台。
何も的を得てはいないかもしれないが、こんなことを考えてみた。

ここから自分が舞台をつくるのであれば、どういう舞台をセッティングするのだろうかと少し考えてみたいと思う。



最近良いなと思う作品は何かしたくなる作品である。触りたくなったり、描いてみたくなったり、創りたくなったりするような勇気がもらえる作品。私も誰かが何かしたくなるような作品を作れるように頑張っていきたいと思う。

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