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240613_記述009_IE-NIWAについて⑥

「私の庭」という仮称を付けてみたものの、気に入っているわけではない。この呼び名はもう少し丁寧に考えてみたいところだが、自然に浮かび上がって来るまでは仮称としてこのように呼ぼう。

一般的な庭の条件に加えて、自分が庭づくりの中でこれは良いかもしれないと思う庭の条件、それを「私の庭」の条件として暫定的に書き出してみた。

①建物に付属ないし連続した屋外空間であること
②人間の手が入ること
③コントロール不可能性を前提にしていること

①②は一般的に庭だと判断できそうな条件として、③については自分の身体感覚として良さそうな条件として挙げてみた。

③についてもう少し考えてみる。
③は人間が環境をコントロールすることが出来ないと認識することである。様々に変化する環境をコントロールし切るという不可能さについて。この自然環境と対立・対峙して闘いを挑むのではなく、それを受け入れることを愉しみ、ある種の諦めの上でどのようにその環境に手を入れるか。そこから何を始めるかということが私の思う庭の面白さがあるのかもしれない。物事・世界に対する認識のあり方次第で創作の方法は変わる。世界の捉え方が出来上がったアウトプットに直結すると言っても過言ではない。

もう少し具体的に考えてみる。
例えば、庭に畑を作ったとする。そこに自分たちが食べるための作物の苗を植える。本来、畑というのは作物を育てることが一番の目的になるのでそのために様々な方法を採る。またどのような作物を作りたいかも様々だ。質を求めることで農薬を使わずに作物を作りたい人たちもいれば、分量と安定供給を重視して作る人たちもいる。その様々な目的に合わせて複雑な屋外環境をコントロールしていく。
ただ、さらにもっとズボラに畑をやっている私たちのような人もいる。そんな私たちにははっきり言って目的がなかった。ただ単に畑をやってみたいという漠然とした想いだけで、その先にどんな作物を作りたいかというビジョンはなかったのだ。興味があったのは作物そのものではなく畑という行為自体にあった。そもそも畑というものをどのように作れば良いのかという事前の勉強をやらずに先に畑を始めてみた。

勉強をせずにやってみること。これには自分なりのポリシーが少しだけだがある。教科書的・テキスト的な勉強をした後に実践をしていくという順番では出来上がったものや空間の説得力が弱いのではないかという考えがある。私の考えることのすべては実践のためにあるので、必ず実践から始める。実践とは自分の身体を中心として動くことであり、テキスト的な勉強というのは他者の実践のまとめである。そういった意味では、最終的には自らが実践するために先に他者の実践をベースにして物事を始めるのは違うのではないか。そういうポリシーである。(ただ、これには但し書きがあって、リスクがない実践の場合のみである。リスクが大きければ事前準備としてのテキスト的な学びや事前のリサーチは必須である。)

再び畑の話に戻るが、私たちの畑の実践にはリスクはほとんどなかった。特に多くのお金がかかるわけでもなく、自由に使える時間もあった。そうなればやりたいことはやった方が良い。そうやって畑が始まった。

畑を始めてみるとなかなか思い通りにはいかない。思っていたよりも日が入らないし、ズボラで自分たちだけが食べるために農薬も使わないので葉は虫たちに食べられる。猫は縄張りを示すためか毎日のように糞をして、作物は少し元気がなくなったように感じる。どうしようもない日々の変化に諦めるしかないのであった。こういう状況に対して、自分たちはそれを乗り越えようとはせずに、この畑という場には色んな変化が見れることが分かった。それらを畑のような作物生産に向かう目的という考え方ではなく、この畑という行為を通した現実的な空間状況を庭的な愉しみとして捉えてみることにした。これがおそらくコントロール不可能性を前提にすることなのだろうと、今は思っている。

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