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240717_記述018_ものづくり村④人間の条件

出張中はやはり記述は進まないということが分かったが、少しでも書けるようになればいいなと思っている。淡々と頑張るゾ。


日々何気なく考えていること/考えていないことが、発現できるようにこの記述という形式を無理矢理にでも作っている。連載テーマとしては「ものづくり村」だが、あらゆる思考の断片(それは我ながらとても唐突なこと)であっても自分自身が考えたことには変わりはないので大きな夢である「ものづくり村」には少なからず反映されていくのだと思う。

今日はタイトルから考えてみた。「人間の条件」という大それたサブタイトルを付ける。皆さんご存知のハンナ・アーレントも同じタイトルで名著を出している。私はその書籍に関してはタイトルと目次のみを読み、本文は一切読んだことがない。タイトルは結構好きなので覚えているので何となくぱっと出てきた。考えてみましょう、自分なりの「人間の条件」。

自分にとっての「人間の条件」というのは意外と明確にある。たいへんシンプルなものでそれは、「モノを作っていること」だ。これは前にも少し書いたことだが、デザイナーや職人のような直接ものづくりをしているという狭義のものづくりのことではない。教育や料理、編集、カウセリング、仲介、研究など職種で言うとほとんど全てである。が、この「人間の条件」は職種のことを言っているのではない。もっと根本的な部分においての態度、その上で作っているのかどうかということが重要になってくる。

少し話が迂回する。
最近ではSNSや選挙などで様々な意見が飛び交いながらどういったものに賛同し、また支持するかということが何かしらのメディアを通して目の当たりにする。近代化の過程で帝国的なものへの民主的反発があり、民主主義を獲得してきた歴史がある。帝国VS市民のような二項対立的なものの構図が生まれ、それに伴い資本主義と共産主義のような対立もズレながらも重なってくる。冷戦以降の現代においても未だその二項対立は大枠では続きながらも、一方でこの虚しさに辟易としている者も多くいるがどうしたものかと悩んでいるというのが現状だろう。
子供の世界でも同じ構造で動いている。近代化を経て確立されていた教育システム=学校社会では、いじめ問題が常にパッケージングされている。もちろんこれは民主主義そのものに初期設定されている構造システムなので、民主主義国家の日本でも未だにいじめは必ずどこでも起こっている。自分たちの子供の頃を思い起こしてみると、道徳の授業やホームルーム的な時間で、その子があの子に酷いことをしたというプチ告発に対して賛成や反対などの意見を求められていた。反対か賛成かしかなかった世界においていじめが起こるのは当たり前である。同じ社会構造の中で生きている大人たちも選挙活動なんかでは未だにそんなことをしていてやっぱり変だなと思う。

大事なのは個別の人間が“個々人で考える”ということである。他者に賛成反対している場合ではない。他者は敵でも味方でもない。ただ存在している何らかの生き物である。(人間ではないかもしれない。植物や昆虫、転がっている古材さえも他者だ。)その他者の存在や活動はひとつの参照事例・レファレンスである。他者、先人たちに対しては常にリスペクトを持ちながら、彼らを乗り越えていくのが1人の今現在生きている個人がやるべきことではないだろうか。他者は敵でも味方でもないが、ある場面においてはとても大切な仲間である。こういった個々人の態度が、もしかすると民主主義を少し飛び越えた社会を作れるのではないかと期待している。もうちょっと別の言い方をすると、他者を皆でいじめずに生きる方法?なのかもしれない。

他者をレファレンスとし、あるレイヤーにおいての仲間だと考えれば、自分自身のものづくりが始まると思う。やるべきことが浮かび上がってくる。人間は作るしかないのだ。作ることで人間になっていく。
こういった意味で「モノをつくっていること」を「人間の条件」として仮定してみたいと思っている。この基本スタンスはおそらく「ものづくり村」にも組み込まれるのだろう。

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