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240607_記述008_IE-NIWAについて⑤

前回のIE-NIWAについてのお話では、第1回開催の振り返りでした。今回は改めて庭とは何かについて少し抽象的に考えてみたいと思います。
(今回も素描は出張でおやすみです。)

第1回のIE-NIWA_vol.1は、手探り感が満載でやりたいことをただ詰め込んだお試しおもてなし会。お試しと言いつつも空間の作り方はその時からぼんやりと意識しながらモノの配置をやっていました。
(こちら記述を参照:https://note.com/yamasekkei/n/ncd19a67d2603

その空間の作り方は、言い換えれば私なりの庭づくりの方法でもあったのかもしれません。IE-NIWAの展示では家の中、つまり屋内空間も展示の舞台になります。その家の中での空間も例に倣った方法で作っていきました。
そもそもその方法とは、今改めて振り返ってみると自分の日々の庭づくりの延長、その身体感覚からふわっと出てきたものなのかもしれません。これをぼんやりと庭的なものと捉えながら整理しながら考えてみましょう。


改めて庭とは何かを考えてみる。
庭と言っても様々だ。自分が日々触っている家の庭をベースに考えてみるので「私の庭」と言った方が良いだろうか。また、自分が物事を考える軸となる建築と比較しながらもそれを考えてみると何か違いが見えて来るかもしれない。

まず、屋外空間にある庭と呼ばれる場所は、常に屋内空間に付属したあるいは連続した空間だ。屋内空間、建物なしに庭単体で独立していることはない。どちらが主となるかは別にしてもうひとつの空間が隣接した状態でなければ庭とは言い難い。仮に建物なしに庭のような屋外空間が単独で存在していた場合、庭と言えるのだろうか。そもそもそれはどう言った状態だろうか。例えば、敷地内に建物がない空き地のような場所で庭的な何かが作られていたとすると、敷地という概念を超えてそれに隣接する建物ないしそれに類するものに勝手に庭として付属し始めるはずだ。空間は常に連続的であるならば庭も何かに連続している。つまり庭は自律せず常に何かに付属なし連続する。この条件は何となく庭と呼べるものではないだろうか。ただこれだけでは私の考える良き庭「私の庭」という意味ではこれだけでは十分に庭だと言えるものではないようだ。

次に、庭と言えるものには、少なからず屋外空間に人間の手が入っている。人間の手が入らぬ屋外空間は庭とは言い難い。建物に付属する屋外空間が完全な放置状態にある場合、どうやらそれは庭とは言えなさそうだ。ただ、人間の手が入っているからと言ってこれもまた私の考えている庭だと言えるわけでもなさそうだ。まずは必要な条件として、人間の手が入ることはあり得そうだが、これもまたそれ単独では成立しなさそうだ。

実際に自分の家の庭、その状態についての記憶を辿ってみる。
庭は、天候の影響を直に受ける。雨が降ると水が溜まってそれがどこかに流れる。太陽の日差しがさせば水は乾き、乾燥する。木材は反り始める。強い風が吹けば植物は横から殴られるように力を受けるし、それに負けたものたちは何処かへ飛んでゆく。まさかというところから雑草が生えてくるし、しかも強力な生命力を持つ。昆虫は呼んでもいないのにやって来るし、しかも家族や友達まで連れて来る。転がるマテリアルたちは風化して時間が経つにつれて姿形を変えていく。土の中は常に暗闇でそこに棲まう様々な生命体もこの変化とともに自分たちの環境を駆動させる。育てると意気込んで植えた植物は呆気なく枯れていくのに、隣に生える雑草は大変たくましい。飼ってもいない猫らが道として認定し、毎日通ってこちらに闘いを挑んでくる。鳥たちは狙いを定めて着陸し、そのまま糞と共に種を落とす。生ゴミと称した様々な有機物らしきものは私たちが知らぬ間に土のような何かに変わっていく。こんなたくさんの変化“だけ”がある場。もちろん地球の状態も少しずつ変わることでこれらの様々な環境要因も一様ではない。こんな複雑で過酷な屋外環境が庭のフィールドになっている。

こういった庭のフィールドとなる屋外空間の複雑な環境を前提に考えてみると、変化だけがただただ在る屋外空間はいくら人間の手を加えたとしても理想の状態を維持できない。ただ、人間は手を加える。だとすると人間がこのようなコントロール不可能な環境を敢えてコントロールしようと試みる領域全体の空間を庭の要素として考えられるだろうか。
建築、もう少し抽象的に定義してみて屋内空間というものはその過酷な屋外空間から逃れるための場所であり、環境をコントロールするための空間と言える。その点でコントロール不可能性、その程度の違いが庭であるかの基準になるのかもしれない。もう少し丁寧に考えてみると、コントロール不可能性を前提にしているか否かにおいて、庭かどうかを判断できる要素になるかもしれない。つまり、コントロール不可能であることを前提に作られる空間を庭的であると。逆にコントロール可能であることを前提に作られる空間は非庭的であると考えてみよう。少々強引だが、もちろんこれはエッセイ的でドローイング的な「私の庭」の定義付けのひとつの考えである。


これらを少しまとめてみると、今の段階で3つぐらいの条件が出てきた。

①建物に付属ないし連続した屋外空間であること
②人間の手が入ること
③コントロール不可能性を前提にしていること

①②は、一般的な庭の条件。さらに「私の庭」の条件として③があると言える。③の条件があると何故よいのか。次はここについて語らねばならないが、おそらくかなり時間を要しそうである。


今日もここまで。
これの続きは重要な気がしていますので次回に書いていきます。

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