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多様性には「ちゅ」するくらいで十分

『多様性』を都合よく解釈してる自己中共へ

※今回は思想の話で小難しいし文も長いので、そういうのが好きじゃない人は「あぁ、あのちゃんの『ちゅ、多様性。』の話ね〜」と思って読まなくても大丈夫です。


君は『多様性』という言葉を聞いたことがあるだろうか。
数年前から頻繁に主張されてきた『多様性』。
私は世の人々が主張するこの言葉が大嫌いなのだ。
爆炎があがりそうな発言は一旦見逃していただいて、嫌いな理由を述べさせてほしい。

なぜ嫌いなのか、それは『多様性』の尊重を"主張"しているからである。
まだ頭からインテロゲーションマークが消え去っていないと思うので、変に燃えることが無いよう説明していく。

私は『多様性』を尊重する考え方には賛成である。
自分こそが真の多様性尊重者であるとさえ思っている。
他者からすれば私も世の人々と同じ考えのように見えるかもしれないが、それは断じて違う。
私自身も最初は人々と同じ考えだと思っていたが、調べていくうちに別物であることが分かった。

私が『多様性』を尊重しているのに対し、
人々は『多様性』の尊重を主張しているのである。

私は、『多様性』の尊重に大切なのは自分の考え方だけが全てじゃないと認識することだと思う。
もし自分が共感できない考え方と対峙したときも自分の考え方と合わないからといって否定することなく、「私は共感できないけど、あなたはそういう風に思っているんですね。」と自分の考えと切り分けて存在を認識する、
自分だけが正義で他は悪だと思わず、様々な正義が蔓延っているということを受け入れることが大切なのである。

「みんなちがって、みんないい。」というやつだ。
この言葉には色々な解釈があるだろうが、私は「人はそれぞれ違い(特徴・得意不得意・好き嫌い・考え方など)があるが、それを否定するのはナンセンスだよ」という意味で解釈している。
金子みすゞは本当にいい言葉を残したなと尊敬する。

だが、『多様性』の尊重を主張している人々は違う。
奴らは「この考え方を受け入れろ!」と主張しているのである。そもそも、『多様性』は主張するものではない。
『多様性』の尊重の主張とは、他者の考えを否定することと同義なのである。
例えば、「男と女以外にも性別がある!LGBTQを容認しろ!」という主張している人間は「性別は男と女しかない」という人の考えを否定しているし、「身体障害者を差別するな!」と主張している人間は「身体障害者は好きじゃないから健常者との待遇に優劣をつけたい」という考えの人を否定している。

このような行為はナンセンスであるし(そもそも矛盾した行為だし)、「自分と違う考え方は否定するけど、自分の考えは肯定してほしい・受け入れてほしい」というのはただのワガママなので幼稚なダサさを晒していることになる。

『多様性』の尊重を主張するという行為がいかにダサいことなのか、ご理解いただけただろうか。
よって私は『多様性』の尊重を"主張"している人々のことが嫌いなのである。

私は自分のことを真の多様性尊重者であると思っているが、多様性を受け入れよう!という風潮の世の中であるのにも関わらず人々は多様性を尊重しれていないと思う。
(まず「受け入れよう!」じゃなくて「受け入れるって考え方もあるよね~」が正しい尊重だし…)
自分たちにとって害のない都合のいいものだけを尊重し、都合が悪いものは尊重しない。考えを"主張"こそしていなくても、尊重する『多様性』を選り好みしていては奴らと変わらないのである。

別に私は綺麗事が言いたいわけではない。
LGBTQや差別を肯定する人も否定する人も存在して良いと思うし、人助けが大好きな人間もいれば殺人が大好きな人間がいても良い。
そういう全ての考えを共感できなくとも、自分の考えと切り分けて存在を認識することが真の『多様性』の尊重なのだと私は思う。

『多様性』の尊重について書いたが、「『多様性』は主張するものだ」という意見や「『多様性』は尊重するべきではない」という意見なども私は尊重していくつもりだ。

どんな考え方でも「みんなちがって、みんないい。」と思える人間が増えたら金子みすゞのような人間が増えたらマイノリティー側の人間も生きやすい世の中になるのかな。

あのちゃんとの「Bet on chu!」、良すぎるだろ!!

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