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社会(ソキエタスsocietas)と人間

「山﨑陽軒@健全學」では今まで身体的健康と精神的健康のなりたちについて、それぞれ4つの項目に分けて書いてきました。
身体的健康については「姿勢」「休養」「栄養」「運動」
精神的健康については「創造」「瞑想」「融合」「直観」
「外-内」「静-動」という2つの直交する軸で構成するマトリクスの中に、それぞれの項目に当てはまる要素を置いていき、全体を構成するというやり方です。
 
社会的健康についても同じように4つのテーマに分け記していこうと思います。
外=社会societas
内=文化cultura
静=生活vita
動=仕事opus
というようなざっくりとしたマッピングの上に、社会的健康についての各要素を当て込んでいきます。
「社会-文化」という「外-内」軸と、「生活-仕事」という「静-動」軸が交わって出来る4つの象限には、「経済=豊潤性」「生態=多様性」「教育=公平性」「機軸=革新性」といった要素がそれぞれ置かれる予定です。
 
身体的健康や精神的健康が「個」の問題として捉えられるのに対して、社会的健康は「間」の問題であると考えられます。
そこでは個の内部ではなく、個と個の間の関係性が焦点となります。
そもそも「人間」とは「人の間」のことに他なりません。
わたしたち一人ひとりは個別の存在であるのと同時に、人間社会という関係性の網の目の中の適切な場所にあってこそ成り立つ存在でもあります。
そして社会的健康が確保されていない関係性の中においては、身体的健康も精神的健康も成り立ちません。
「関係性=間」こそが人間社会を形作っている本質であり、「人間」というものの実態であるからです。
 
「間」という字は「ま」や「あいだ」と読むのが一般的ですが、ここでは「あわい」と読みたいと思います。
「ま」や「あいだ」は個別のモノやコトの存在を前提とした上で、それらの隙間の「何もない空間・時間」を指しますが、「あわい」は「合う・会う」という語と同じ語源から生まれた言葉で、そこには生きていく上で欠かせない大切な人や世界との「交わり」があります。
日本人にとって、古くから「あわい」は「うち」でもなく「そと」でもない「なか」としての意味を持つような空間でした。
「この世」でもなく「あの世」でもない幽玄の場所であり、昼と夜とがうつろい変わってゆく「黄昏=誰ぞ彼」のときでもありました。
人と人の関係もうつろいゆくものだと捉えられており、「袖振り合うも多生の縁」というように、今世のみならず前世や来世にもつながっている幅の広い関係性の中に「あわい」のひとときがあるという位置づけがなされます。
人間は人と人との間にあり、人と人、人と世界、内側と外側、今と昔、今と未来をつなぐ媒介である「あわい」として存在しているのです。
 
アリストテレスは人間をゾーン・ポリティコン(ポリス的動物)と呼びました。
人間はよく生きるための共同体=ポリスをつくることで自己の完成を目指す自然本性を持っているということです。
この言葉は現代的な意味合いの中で「人間は社会的動物である」と訳されていますが、ホモ・ソシアリスとも言われるように、人間は社会の中で他者との関係において生き、社会のうちにあって自己の存在を見出しながら生活しています。
社会の中の適切な位置にあることで、はじめて個人としてのアイデンティティも生まれてきます。
 
人間は社会の子であると同時に、社会を形成し進展させている親でもあります。
社会は個人を基礎とし、個人の集合として形作られ、一人ひとりの活動によって社会全体の動きも変化していきます。
トマス・ホッブズは自然人たる個人を遥かに凌駕した不可侵の存在として、国家社会のことをリヴァイアサンLeviathanと呼びましたが、そのあり方や働きを作り出したのが個々人の意識である以上、それを変えていくのも一人ひとりの人間の意識であり意志の力の集合体以外にはありえません。
 
そういう意味で社会的健康というものは、わたしたち一人ひとりが作り出しているものであり、常に変え続けているものでもあります。
個々人が自分自身の身体的精神的健康状態を保ちながら、関係している人たちとの「あわい」を健全に紡いでゆくことが、社会を健康にしていくためにわたしたちができることであり、逆に個人的健康なしに社会的健康は成り立ちません。
個人的健康は他人や社会から与えられるものではなく、“自ずから然る”ものであり、それを保つためには各人が少しずつ意識的で日常的な努力を続けていくことが必要です。
同じように社会的健康も、そこに参画している各人が少しずつ力を出し合っていくことで、持続していくことが可能になるのです。

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