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直観 タオ オブ「観」

ユーラシア大陸極西部、ギリシャにおける原初の神カオスは「大口を開けた何もない空間(隙間)」で、そこからガイア(大地)やタルタロス(奈落)、エロース(愛と欲望)、エレボス(地下世界)、ニュクス(夜)などの神々が生み出され、コスモスの秩序が形作られました。
ユーラシア南端のインドでは、無数の神々がカオティックな世界を構成していましたが、その中から仏教が生まれてマハーヤーナが起こり、諸仏諸菩薩による絢爛たるコスモロジカルな宇宙観が誕生してマンダラとして表現されました。
それらに対して東ユーラシアに位置するシナの人々は、コスモス的世界に並行して存在している、カオティックな世界の在りようを好みました。
古代シナにおいて、ギリシャのカオスに相当する存在は「渾沌 こんとん」と呼ばれます。

『荘子』内篇によれば渾沌は中央の帝で、その顔に目、耳、鼻、口の7孔を持たなかったと言います。
北海の帝「忽こつ」と南海の帝「儵しゅく」は、手厚くもてなしてもらったお礼として、渾沌の顔に一日ひとつずつ穴を開けていきましたが、7日目に渾沌は死んでしまいます。
見たり聞いたりものを食べたりする感覚を味わってもらいたいという親切心からした事が、却って不幸な結果を招くこととなったというこの説話は、目鼻立ちの整った秩序よりも、根源的で無秩序な生命の働きを愛する道教的価値観を表しています。
「自然は自ずから然り、道は無為にして為さざるなし」
ヒトの賢しらな考えが、大いなる「無為自然」の営みにいたずらに踏み込み、それを破壊してしまうことを、渾沌説話は諫めています。

荘子は老子と共に「道家」の始祖とされ、彼らの考えは「老荘思想」として「道教」の根本思想であるとされますが、道教の概念自体は東アジアの地に太古の昔から広く存在していた土俗的民間信仰を土台としています。
原初の道教は巫術(シャーマニズム)として自然発生的に各地で起こり広まったもので、祈祷や禁呪、神託などを神がかり状態で行い「鬼道」とも言われます。
『魏志倭人伝』では3世紀の倭国(日本)の状況を「邪馬台国の卑弥呼は鬼道に事え能く衆を惑わした」と記していますが、卑弥呼はまさしく初期道教の巫女(シャーマン)だったのだと言えるでしょう。
邪馬台国と同じ頃のシナでは、張陵、張衡、張魯の「三張」が、老荘思想や易経哲学を取り込んだ「神道の道教」を成立させ、民衆の支持を集めて一大勢力となりました。
その後、魏の曹操によって討ち滅ぼされた神道道教は、一部は江南の龍虎山に隠れて隠遁道教となり、一部は茅山に登って皇帝勢力と妥協する体制内的道教(真道)となりましたが、東アジア地域全般に根差した土着的な要素を持つ道教は、儒教や仏教などと入り交じりながらも、現代に至るまで生き続ける「アジア的混沌の知恵」の源泉となっています。

『老子(道徳経)』によれば万物の根源は「道(タオ)」であり、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」としています。
「有」より生じた「陰気(女性性)」と「陽気(男性性)」から「和気(調和)」が生まれ、これら三つの目合いによってすべてが生み出されますが、有は元々「無」の中から出てきたものであり、この有を含んだ無こそがタオなのだと言います。
タオから生まれたものものを養い、形を与え、環境に応じて成長させる働きを「徳」といい、それゆえにあらゆる生き物は「道を敬い、徳を尊び」ます。
タオの本性は「無為自然」にあり、そこから生まれたあらゆる存在に君臨したり治めたりするのではなく、「なにもしないことによってすべてが自然に為される」姿が道徳的世界の理想像です。

タオという絶対的真理を把握するための認識方法を、老子は「観」と呼びます。
「穴(目や耳などの感覚器官)」を塞ぎ、「門(論理的働き)」を閉ざすことで、直観的理性によって物事を知り、何の行動をせずとも万事を成し遂げるのが聖人であると老子は言っています。
「観ずる」ための方法として、「玄鑑」というこころの奥底にある鏡を用いて物事をよく照察することが推奨され、そのために静かで落ち着いた境地にあること(静)が大切となります。
「静」を一心に守り、「虚(こころの深み)」に向かって進めば、「常(永遠であるもの)」を知ること(明)ができ、すべての物事を偏見なく(公)包み容れること(容)ができるといい、これを「知常」と呼びます。
この「玄鑑」と「知常」を通じて真の知を得ることにより、人の身の修め方を知り、家族の修め方を知り、村の修め方を知り、国の修め方を知り、天下の修め方を知る事ができると老子は言います。
このように具体的なものの正しい観察から、抽象的で永久的なタオを認識し、また根源的なタオから普遍的なものを客観的に取り出して徳を体得するための、物事の本質を見抜く直観力を養う方法が「観」なのです。

老子は「沈黙の美学」を説き、「美」というものは「清らかで静かに隠れた本質」にあるといいます。
余計な装飾や華美を取り除いたところに本当の美が姿を表し、「いかにも淡白で味がないが、それはいつまでも味わい尽くせない」ものです。
美とは「正面から向かっても頭が見えず、後からついて行っても後ろ姿も見えない」ものであり、根源的で無秩序な「混沌」の中にこそ、生命のみなぎるタオと相通じる精神的な美があるのです。
この老子の「何もないことの美」を愛でる審美観は、現代に至る東洋的美学の玄妙なる精神の礎となっています。

老荘思想を核とする道教的なものの見方は、現在我々が迎えているグローバルな世界の在り方に対して重要な示唆を与えてくれます。
古代シナ社会において、体制的で現実的な儒教思想に対するオルタナティブだった道教思想は、現代の国家主義や科学的モダニズムに対してのオルタナティブともなり得ます。
「正しい言葉は、真実に反するように聞こえるものである」という老子の教えは、論理的思考を超えた「観」による認識によって初めて理解できます。
こころの鏡による直観力を磨き、コスモスの世界からタオによるカオス(混沌)の世界へと意識を移行させ深めていくことで、人類が現在直面している諸問題に対するオルタナティブなパースペクティブが生まれ、解決のための糸口となるのではないでしょうか?

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