「人に迷惑をかけちゃいけない」の呪いを解除したい話。
こんにちは、ヤマサキです。
今日は『コミュニティ=共同体と弱者』について。
突然ですがわたし、内田樹さんというフランス哲学者&合気道家に私淑しておりまして。
内田先生の本はほとんど持っていて、何度も何度も読んでいるのであります。
そこでよくコミュニティ(内田先生は『共同体』と言っています)の話になるのですが、
内田先生のいう共同体は常に「弱者ベース」なんですね。
ここでの弱者とは、赤ちゃんとか、お年寄りとか、重い障害のある方とか、ケガや病気の方とか・・・
自分で自分の食い扶持を稼げない人、という意味です。
「すべての共同体は、弱者が愉快に、ここちよく生きていける共同体でなければいけない。」
なぜかというと、今あなたが健康な壮年期を過ごしていたとしても、
人はいつどんなきっかけで、ケガをしたり病気になったりして動けなくなるかはわからないし。
あなたは何十年か前は、他の人にお世話をしてもらえなければ死んでしまう赤ちゃんだったのだし。
そして、数十年後には、他の人に介護をしてもらわなければ死んでしまうお年寄りになるからです。
だから、「弱者にやさしくありましょう、親切にしましょう」というのは
何も同情とか憐みといった「情」の話ではなくて、
自分自身の生存可能性を伸ばすための極めて「合理的」な選択肢なんですね。
「生産的なこと=価値がある」に対するギモン。
ものすごい個人的な話で恐縮ですが、
私の知人に、勤続20数年?くらいのバリバリの会社員(銀行員)がいます。
彼の中の絶対的な価値基準は「おカネ」。
これは彼の育った家庭の影響も大きいのですが(彼の両親は証券会社勤めでした)
人生の中で稼ぐこと、労働することに大きな価値を置いているんですね。
彼の父はもう定年退職していますが、
「自分はもう会社で働いていないから、そのぶん家事をやっている」
とよく言っています。
これは一見すると、
「家事をやってくれるいい夫じゃない!」
となるところかもしれませんが、
その根本にある考え方に、わたしは「???」となってしまうんですね。
・会社で稼いでくること
・家事をすること
・育児をすること
・・・など、何か生産的なことをする=価値があると定義してしまうと、
じゃあ生産的な能力がない者は価値がないのかしら、となってしまいます。
(どこかの議員の、聞いたことがある話ですね)
でも、本当にそうなのでしょうか?
子どもや被後見人さんに教えられること。
私の娘は3歳で、何の生産能力もありませんが、
彼女が家にいることによって、家族の笑顔が増え、家族の生きる力が高まります。
また、私が後見人をしている、50代のダウン症の女性は、
私が訪ねていくといつもあたたかく抱きしめてくれます。
その女性は暮らしている施設の方はみんな、その女性の愛によってすごく救われているのがわかります。
でもその方に生産能力があるかといったら、それはありませんよね。
私は、
「あなたが生きているだけで価値があるよ」
と思ってくれる人たちと生きていきたいです。
「迷惑をかけてもいいよ、その代わりこっちも迷惑をかけることがあるからよろしくね」
と言ってくれる人たちと、助け合っていきたいです。
昔は赤ちゃんで、この先は老人になって、老人になる前にも、いつ事故や病気で動けなくなったり障害を持ったりするかわからないのが人生です。
健康で、自分の食い扶持は自分で稼げる期間は、長い人生の中ではほんの一部です。
そうでない時期は、必ず他の人に迷惑をかけ、世話になります。
それって、ふつうのことですよね?
幸い、私の周りにはそういう共同体をつくっていきたい方たちだったり
すでに共同体をつくりつつある方が多くいらっしゃいます。
「人に迷惑をかけちゃいけません!」
という親からの教えを内面化している方は少なくなく、これを変えていくことは容易ではありません。
もし道徳の時間などに教えられても、わからないことだと思います。
だから、みんな自分の持ち場持ち場で『弱者ベースの共同体=コミュニティ』をつくっていって、
そういう場が各所的にどんどん増えて、だんだん日本全体を覆っていけばいいなあ。と思います。
もちろん、わたしも地道にやっていこうと思います。
それでは今日はこのあたりで。
良い週末をお過ごしください。
山崎 梨紗
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