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還暦を迎えた母の教え

母が60歳になり、定年退職を迎えた。本人にとっては感慨深いだろうが、娘にとっては正直おっかなびっくりだ。

だって、60歳って、親戚一同が集まって赤い服をプレゼントされて夫婦揃いで写真を撮る、完全にお年寄りな歳である(おじいちゃんの60歳のお祝いの時の写真は、誰が見ても高齢のおじいちゃんだ)

そんな60歳という「母の老い」を実感してる娘をよそに「これから何しようかしら〜」なんて、少女然として笑うのだ。

母はとても不思議な生き物だ。家ではあらゆる家事をこなしながら、かたや校長先生として一学校の責任者でもあった。
…なんて言葉だけだと、厳格な母のようにみえるけれど、天然でドジっ子で、どちらかというとゆるキャラのような人だ。仕事で「校長先生の話」をしているなんて、正直全然イメージできない。(家では見せてなかっただけかもしれないけど)

そして18歳で上京して、働きはじめて、色んな人や場面に出会うようになって、わたしはこの母に育てられてよかったなあと思うことがたくさんある。
それは、好きなことに対する真っ直ぐさとか、自分で自分のご機嫌をとるとか、何が大切か考えて決断することとか、きちんと泣けることだとか。色々あるけれど、確実に幼い頃から母に種を蒔かれていたなと、答えあわせのような感覚になる。

そんな種から満開の花は咲かせてないけれど、芽くらいはでてると信じたい。ということで感謝の気持ちをもって、母からもらった3つのことを「めいげん」とともに書き留めておこうと思う。(名言なのか明言なのか、迷言なのかはわからん)

1.「いずれ自分で勝手に勉強するって思ってたのよ〜」

そんなこんなで中学の頃、成績が学年の下から2番目で、偏差値が40くらいだった。けれど母も父も「勉強しなさい」なんて一言も言わなかった。

当時は勉強しろってうるさくなくてラッキー!と遊び呆けていたが、無事に大学生になったとき不思議に思って母に聞いた。

私「なんで勉強しなさいって言わなかったの?冷静に偏差値40のままだったら大学もだいぶ厳しかったよね。」
母「ああ、いずれ自分で勝手に勉強するって思ってたのよ〜^^」
私「は!?!?」
母「人に言われてやったところで、たかが知れてるのよ。自分でやらなきゃね。」
私「まあ結果論として大学いけたけどさ!でも、そのまま高3とかなってたらどうした?」
母「まあそれはそれで経験で、アンタの人生やし(笑)」
私「…」

母は「大学に行きたいと思ってたら、どこかで勉強の必要性に気づいて勝手に自分でやるだろう」と当然のように思ってたらしい。だから何も言わなかった、と。

…こわくないですか?中3とか部活も行かず、放課後は毎日マックでダラダラして、アホみたいにプリクラとって、宿題も出さず、数学のテストは17点とかで、英語の成績は2だった。そんな娘に「勉強しなさい」って言わない親ちょっと怖くないですか?それも「この子は勉強しても意味ないから」とか諦めからじゃなくて、「いつか自分で勉強するだろうしな〜」って信頼を寄せられていたという……。

とまあ、ここまでだと本当に放任主義のようにみえるけれど、母のすごいところはわたしがやる気を出した瞬間に万全の環境を用意してくれたところだ。「やべ、勉強しなきゃ!」と焦って相談したら、すぐ塾に通わせてくれたし、たくさん参考書買ってくれて、東京と京都にオープンキャンパスにも行かせてくれた。

そんな両親が整えてくれた環境のおかげで、わたしは能天気に勉強に集中することができて、「できないことも、ちゃんとやればできる」という体感を得ることができた。今でこそ諸々の費用を考えるといかに恵まれてたかがわかるけれど、そんなこと微塵にも出さずに「あんたの頑張った結果」と言い切る母には一生勝てないような気がする。

余談だけれど、両親はわたしの天邪鬼で頑固な部分をよくよく理解していた上で、いい意味で放置してくれてたんだろうなと思うので、最近親になった友人たちは真似しないでね。

2.「いろんな味のアイスがあるほうが選ぶ時ワクワクするでしょう?」

要するに、人生は選択の連続で、その時々にできるだけ多くの選択肢をもちなさい、ということ。少しの選択肢の中から消去法とかなけなしで決めるよりも、多くの選択肢を知って考えて自分の意志で選びなさい。

ということを、小学校低学年くらいからアイスに例えられてきた。

選択肢を増やすためにはまず「知る」ことが必要なので、母はわたしが少しでも興味もったことを決して否定せず、「いいじゃん」「やってみよ!」と色んなことを試させてくれた。

文字面だけだと綺麗だが、母の「否定しなさ」は本当にすごい。なんならちょっと引く。
8歳くらいの頃、当時流行っていた漫画『テニスの王子様』を読んで「手塚ゾーンがやりたい!」と言ったわたしに「あれは漫画の話だからできないよ」と言わず、なんとテニススクールに通わせてくれたのだ!そうして自らの体験もって手塚ゾーンができないことを知り絶望していたところに、『スラムダンク』を読んで初心者でも全国大会いけるぽい!とバスケを始めて小中高とハマったのであった。余談おわり。

そして色んな知識と経験をもって知りえた選択肢から「選ぶ」ためには「考える」ことが必要になってくる。

たとえばバニラとチョコとストロベリーのアイスがあったら「いちごが好きだから」という理由だけで、ストロベリーを選べる。
けれど増えた選択肢の中に、「ストロベリーチーズケーキ」と「ベリーベリーストロベリー」と「ストロベリー」があるとする。
そうすると
・いちごの味が好きなのか?果実感がすきなのか?
・でもチーズケーキもすきだし...絶対いちごともあうしな
・ベリーベリーってことは普通のストロベリーより果肉多いのかな

とかとか、色んなことを考えた上で、ひとつを選ぶ。そんな軌跡を経て決断した答えは自分自身を納得させるし、逆に「これだけ考えてもわからんからとりあえずやるしかねえ!」と選んだ選択肢を後悔しないようにするために努力することだってできる。

何かをひとつ極めることも大切だけど、立ち止まった時に、別の道が拓けていたほうがいい。なので、ひとつを極めようと思ったら「普通1時間かかるんだったら、質を高めて30分でやって残りの30分は別のことをしなさい」などど、ちょっとよくわからないですと言いたくなるようなことも母に言われた。

そんなこんなで、常に選択肢は多いほうがわたしの人生は楽しくなりそうだな、という予感は今もずっとある。なので、なんか楽しそうには飛び込みたいし、苦手かもにも一瞬触れてみたいし、好きだなと思ったら大きく育てたい。

と仰々しく言っているけれど、食に関しては常に同じメニューしか頼まないという選択肢オンリーのダブルスタンダード女でもある。

3.「アンタはとっても普通で、とっても特別なのよ」

幼い頃から現在に至るまで、母はわたしにこう言い続ける。そのおかげで、なんだかずっと自己肯定感を持ってヘラヘラ楽しく生きれている。

十代の頃は今より何をするにも極端で、興味の範囲も0か100。対人関係のバランス感覚も掴めておらず、どちらかというと難しかったなあという記憶のほうが多い。色々ありプチ不登校になったりもした。

でもその度に「ぜんぜん気にせんと!」と言っては、そのまま成長してヨシ!と花丸をくれていた。そして「アンタは普通で特別だから」と続けてくれる。

母の言う「特別」は誰かと比べて秀でてるとか優れているとかではなくて、自分が自分であることに価値を見出すということだ。人間は決して同じではないから、そんな不安定な人間が考えた順位や定義に押し込まれなくていい。それよりも、きちんと自己を確立して律することのことのほうがはるかに難しいことだと教えてくれた。簡単に言えば「いまの自分に自信を持て(※ただし考え続けろ)」という感じ。

この「考え続けろ」というのがミソで、高まり過ぎた自己肯定感は不遜で傲慢な人間になってしまう。なので「自分の普通を特別大切にしながらも、それが誰かを傷つけていないか常に疑い、考えなさい」と諭してくれているのだなと解釈している。それは確かにわたしの中の軸というか芯というか、どこか真ん中に鎮座している。

…まあでも「新撰組全隊士録」を丸暗記しようと図書館に通ったり、ヒエログリフで手紙書いてたのは、女子高生にしてはだいぶキテるので、もう少しだけ心配してくれてよかったのではとは思います。

4.おちゃらけた父にも感謝してること、ある

そしてずっと母のことばかり書いているが、父にも感謝している。

父は基本的におちゃらけている人間なのだが、わたしが幼稚園くらいのころから「1人で飯を食っていけるようになれ」としきりに言い続けた。まあ誰かにお金や生活を依存しちゃダメってこと。

進学のこととかなにを相談しても「1人で飯食っていけるようになるならいいよ」が父のファイナルアンサーだ。そんな刷り込みがあるので、大人になったいま、自分で働いたお金で、好きな格好をして、好きなものを食べ、好きなところに旅行に行き、自由に生活できている。

「女の子だから勉強しなくてもいい」なんていまだに平然と言われてる田舎で、ものもわからない3歳から父が言い続けてくれてたのは幸運なことだったなと思う。

あ、あともう一個は悠々とヒールが履けること!大事!わたしは身長が168cmと一般的に高いと言われてる部類なのですが、おちゃらけた父が193cmのため「もっと身長ほしかったな〜」と思いながら10cm以上のハイヒールを平気な顔して履ける。あと背が高いほうがショートヘアもパンツも似合うと思っているので、それにヒールあわせると攻撃力高そうでなんかいい。そんな身長はDNAなので、父にはもちろん明治時代の人間にしては異常に背が高かったらしい(?)という先祖代々に感謝。

5.終わりに

わたしが社会人になり5年。大学卒業して子育ての責を終えたのか、最近の母は少しだけ明け透けに話をしてくれるようになった。それまではやはり母としてなのか、娘のわたしには愚痴も文句も言わないし、菩薩のような顔しか見せてこなかったのかなと思う。

まあ今もそこまで大っぴらではないのだが、退職してもう一つの責をおろしたのか、少しずつ個人としての感情を漏らし始めていて、それがなんだか面白い。そしてそれが対等に話ができる人間になれたようで嬉しかったりもする。そんな母に蒔いてもらった色んな種をいつかどこかで誰かのために咲かせられるような人間になれたらな、と娘は思っています。

たくさんの人のために尽くしてきた母には、これからは自分のために生きてほしいな、と思う。けれど、母の考える「自分のため」はきっとどこかの誰かのためで、「定年退職したから時間できた!」と何やら色々勉強したり考えたりしているよう。なんかもう母を超えて、とてもパワフルな素敵な人だなあと、これからの健康と活躍をただただ祈っています。

おしまい。

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