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多元性と多層性に棲む。ランベッリ『イタリア的考え方:日本人のためのイタリア入門』を読む(3)

文化の読書会のメモ。今回も『イタリア的考え方:日本人のためのイタリア入門』を読みます。今回は第4章と終章。

摘 読。

第4章の冒頭にBidussa, D.の「両棲類的」という言葉が紹介されている。

これは、なかなかおもしろい表現だと思う。古代と現代の両次元を生きているのがイタリアという文化や社会の特性であるという指摘である。本書では中国出身の人類学者(ワン・ビンとあるが、どういう研究者かわからなかったので、引用は控えめにする)が1988年当時の中国の“体制”や”伝統”に即して、イタリアのモデルを扱き下ろした論文が引用されている。そこでは、イタリアの特質として自由と個人至上主義があると指摘されている。ただ、ランベッリがここまでの考察で明らかにしてきたように、イタリアにおける個人主義は反共同体的なものではない。むしろ、「家族型個人主義」や「交際型個人主義」のような、個人という存在を軸にした社会的ネットワークこそが大きな意味を持っている*。

* ちなみに、私のゼミに所属しているメンバーで、フットサルでイタリアに1年だったか留学していた学生も、こういった側面があることを話してくれたことがある。

このネットワークは流動的であり、うまくいけばオープンで明るい社会の設立に貢献するが、反対にマフィアや汚職問題などを惹き起こす要因にもなりうる。同時に、政府や国家機関が十分に機能していない場合は、それに抵抗したり、あるいは相互に援助しあったりするという役割も果たす。そしてまた、政府や国家機関に対する基本的な不信という姿勢も生み出す。

こういった社会的ネットワークは、当然ながら範囲がある程度限定される。イタリアの中小企業がしばしば称賛され、「うまくいっている」と評価されるのは、個人を軸にした社会的ネットワークがうまく機能しやすい規模だということなのだろう。加えて、中小企業の場合は、それぞれの中小都市に存在することも、社会的ネットワークが機能しやすい重要な要因といえよう。

このような多元論的な姿勢は、イタリアという国民国家に属しているというよりもそれぞれが住む州や町への帰属意識を持つというところにもあらわれている。ランベッリは、ここに日本の本地垂迹説との近似性を指摘するが、私も同感である。

もちろん、この社会的ネットワークあるいは関係性の外にある者に対しては、きわめてよそよそしい、もっといえば絶対他者という感覚を持つ点も同時に重要である。ただ、そのネットワークそれ自体が動的であるために、関係性が固定しているというわけではない。こういった流動的な関係性は、関係の形式性を重視する国民国家的な近代のスタイルとは合わない部分も当然ながら出てくる。

その意味で、イタリアにおける社会主義や共産主義の位置づけというのは、われわれが想起しがちな全体主義的・計画経済的なそれと少し異なる可能性があることも意識しておいてよいのかもしれない。

これに関して、ランベッリは中村雄二郎の“南型知”を参照する。これは「普遍主義・論理主義・客観主義を原理とする“北型”ヨーロッパに対立するものとして、コスモロジー・シンボリズム・パフォーマンスを原理とする」文化をさす。さらに、ヴァッティモ/ロヴァッティの『弱い思想』についても参照している。いずれも、“強い理性”への懐疑に立脚する。

その具体的なあらわれが、多様な交流のネットワークであるわけだ。ランベッリがこの本を書いたのは25年前のことだが、やはりこういった個人を軸にした(その際、個人とはどういう存在なのか、についても問われる必要があろう)ネットワークの可能性は、国民国家的な体制と拮抗する(つねに対立するわけではない)考え方、そして動きとして注目に値しよう。

私 見。

今回は、摘読のなかに私見が入り込んでしまっている(笑)
イタリアにおける古層と新層の入り交じりというのは、ひじょうに興味深い論点だと思う。

この個人を軸とした社会的ネットワークという考え方、これは個人的にもひじょうに興味深い。同時に、最近気になっているオルテガ・イ・ガセットの思想と併せて読んでみたい気がする。

ランベッリが、この本のなかで“イタリア的考え方”として採り上げているものは、最近でもしばしば称揚されているようである。しかも、いささかの無邪気さをもって。ややもすると、原始的共産主義と結びつきやすそうな気配もある(ランベッリがそうだというのでは、もちろん、ない)。ただ、(ほとんど読み込めていないにもかかわらず)ネグリやヴィルノによって提唱されている“マルチチュード”という概念が頭をよぎったのも事実である。私自身は、こういった考え方に与するわけではない。しかし、“資本主義”という概念が、その現象様態において一様ではないのと同様に、社会主義や共産主義もまた同様に一様ではないこと、そして、それらが入り交じりあって存在していることもまた、ここで考えさせられる。

「さまざまな要因が入り交じりあって、具体的な事象は成り立っている」という、当然といえば当然のことを、ランベッリはイタリアの文化の特質を読み解きながら、明かしてくれているように思う。ここでいう要因とは、物質的な要因だけではなく、そこから生まれ出てきた思想的要因も含む。その点を、“イタリア”という具体的事象の解明を通じて提示してくれている点で、先だって読んだ著作とともに、大いに学ぶところがあった。これは、いささか蛇足的だが、「イタリア的」という表現それ自体も、“イタリア”という表象が多元的・脱中心的な集合体への言語的符牒であると考えると、何とも興味深いところである。つまり、私たちは、この本を読んで“イタリア”をわかった気になってはならない、ということかもしれない。

それは、別にイタリアにのみ向けられたことではなく、どの場合であっても同じことであろう。いわゆる相対主義ではなく、「地に足をつけた/足許を確かめようとする、そこから広がる関係性をていねいにたどる」ような議論を展開する必要があるという意味合いで理解したい。

ランベッリさんへの質問。

  1. 本書『イタリア的考え方』や『イタリア的』でも、〈南〉の思想が重視されています。その点は十分理解できるとして、一方で(イタリアにおける)〈北〉の思想にも同時に関心が湧き起こります。いわゆる国境を持った存在としての〈イタリア〉において、〈南〉の思想と〈北〉の思想が入り交じるようなことは、現実に存在しているのでしょうか?:“イタリア”における思想/文化をめぐる汽水域の存在

  2. 生活を可能にするすべとしての価値創造*を営んでいくうえで、私たちは“資本主義”に立脚しているのが現実です。その“資本主義”が多様な姿で存在しているという前提で、relazioni comuni(コミューン的関係性=仲間うち的なつきあい)を基盤にしているイタリア的な価値創造のあり方が、これからの社会を構想していく際に、どのような有効性や可能性を持つとお考えになられますか?

  3. 『イタリア的』で採り上げられていましたが、イタリア(といっても、地方ごとに異なるのかもしれませんが)の人々の“生 vita”にとって詩と音楽は、どのような位置づけにあるものなのでしょうか?「うたう」**ということが、イタリアの人々にとってどのような生の営みの一つであるのかについて興味を持ったので、ランベッリさんの捉え方を伺ってみたいです。

* ここで、価値創造とは「誰かが抱く期待や欲望を、他の誰かが充たすこと。そのために、モノやコトなどを創出し、提供するという活動や、それに対する評価としての対価を得るという営みが含まれる」と理解しています。
** 日本語でも、「うたう」というとき「歌う」「唄う」「謡う」「謳う」「詠う」といったように、漢字の書きわけでニュアンスの違いを表現することがあります。


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