見出し画像

制度、文化、習慣。ランベッリ『イタリア的考え方:日本人のためのイタリア入門』を読む(2)

文化の読書会のメモ。今回も『イタリア的考え方:日本人のためのイタリア入門』を読みます。今回は第3章。

摘 読。

まずもって、この本は1997年に書かれたものである。したがって、25年前である。四半世紀もたてば、いくらかは変化があるかもしれない。以下は、原則として、この文献をもとにしている。

この本、あるいはランベッリのアプローチとして共通していることだが、イタリア的なるものを見いだしていくうえで、歴史を超えたエッセンスの構造として捉えるのではなく、社会的・文化的なシステムとしての法律や規則、諸制度、通過儀礼などの意味合いを分析するという点を重視する。そこから日常生活を描き出そうとするのが、ランベッリのアプローチである。

ことイタリアの場合、ランベッリのみるところ、近代国家=中央集権的国家体制と、もともとのイタリア全体としての不均一性=地域的共同体とのせめぎあいという側面が強いようである。ランベッリは中央集権的国家体制ないし制度が国民生活にどのような影響をおよぼしているのかに視点を定めているようだ。ただ、この章もいろんなことが議論されていて、読みにくくはないが、すっと理解できるかといえばそうでもない。

なので、ここでは概観的な話になってしまうが、容赦願いたい。

イタリアにおける日常生活を見るとき、カトリックの影響はやはり大きい。といっても、例えば出生率は下がってきているわけだが、カトリック教会などは子どもが数人いることを推奨していたという。このあたり、ランベッリはカトリック教会の影響の低下を見る。

一方、教育制度、とりわけ大学という制度はカトリックの影響が色濃い。入学前の時点では学生はみな同じ白紙状態であるから、みな同じように教育を受けるべきだと考えられている。ただ、学問の吸収能力は各個人の自由医師によるので、最後の試験で判断を下す。つまり、入るのは簡単だが、出るのは難しいというしくみである。このしくみだと、大学に入ったあとでも関心の変容によって専攻を変えることが可能になる。もちろん、これは不確定性や混乱をもたらしやすい。にもかかわらず、知的な成長や批判的精神、考え方や行動の自律性を育てるという点で長所も持っている。

これに対して、大衆教育制度それ自体は比較的新しいものである。そもそも王権的政府をはじめ中央集権に対して批判的な姿勢が強いイタリアの場合、こういった大衆教育制度が権力とその支配機構とみなされたきらいがある。実際に、第二次世界大戦終結まではそういう側面が強かった。戦後はファシズムへの反省とそれを超克するという狙いから、批判精神の涵養が大衆教育制度のなかに摂り込まれていった。

いずれにせよ、イタリアにおける教育においては教員による自由裁量の度合いが大きいようである。

徴兵制度についても触れておこう。イタリアでは、以下のように規定されている。

国家の防衛は共和国市民の神聖な義務である。徴兵制は法と制限の範囲内において義務とする。その兵役実施は市民の職業や政治的権利を脅かさない事を前提に行われる。また国軍は共和国における民主主義の精神に則り、運営される。

イタリア共和国憲法第52条

ランベッリのみるところ、徴兵制度は近代国家として国家意識・国民意識を共有するためという側面、通過儀礼的な側面があるという。文言としては理解できる。ここは読書会の場で考えたい。

さらに、ランベッリは職業の世界について言及する。ここで目に留まったのは、ブルーカラー(労働者)とホワイトカラー(事務職員)のあいだには画然たる差があるという点である。これは、ドイツにおいても同様で、いわゆるAngestellteはArbeiterとは別の扱いである。本文から話が逸れるが、製造原価のなかに含まれる人件費と、一般管理費のなかに含まれる人件費との違いは、ここに淵源があるとみることもできよう。

この発想は、労働者の仕事が自分のためではなく、雇用者・経営者のためになされる行為だという理解につながる。したがって、仕事そのものを頑張らないということではなく、自らの時間をしっかりと確保するという姿勢に向くことになる。この自由時間という考え方は、イタリアにおける生活様式を規定する大きな要因であり、それが結果的にイタリアにおける資本主義の純化への動きを抑制することになったともいえる。

他にも結婚に対する考え方なども興味深いが、ちょっとここでは省略。

私 見。

ランベッリは、イタリアにおける日常生活を捉えるときに、カトリックとの関係性をかなり重視している。関係性というのは単なる影響関係というのではなく、受容的影響と反撥的影響の両方を含む。離婚が1974年になってようやく法律として認められるようになったのも、カトリックにおける離婚への厳しい制約からの脱出として捉えられるだろう。

この章は、かなりさまざまな事象に言及しているために、何を論じたいのかやや摑みかねる部分がある。しかし、近代国家的な施策の受容と反撥、カトリック的な権威・発想の需要と反撥、そういったなかから、もちろん時代的な変化も含めて、動態的に日常生活が織りなされていってるのだということを明らかにしようとしていることは、重要な視座だと思う。安易に、特定の要因を原因と断じて安心するような風潮は今に始まったことではない*。その意味で、

ふと、脳の自由エネルギー原理というのが頭をよぎった。生物の目的は感覚入力の予測能力を最大化することであり、言い換えれば、感覚入力のサプライズを最小化することであるという考え方のようだ。

専門的なことはわからないので、深入りはしないが、人文学的なアプローチというのは、この自由エネルギー原理にあえて反することで、能動的推論の可能範囲を拡げることなのかもしれない。本来的には、感覚入力におけるサプライズを最小化したいにもかかわらず、可能な範囲でサプライズも得たいということなのだろうか。

話が逸れた。

いずれにしても、いわゆるidea的なところを探っていこうとするならば、日常生活の多様な事象を、さまざまな側面から辿っていかなければ、それを理解するのは困難であるというランベッリの基本的姿勢は、私も共有する。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?