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物質文明の基盤としての「食」。ランベッリ『イタリア的:「南」の魅力』を読む(1)

文化の読書会、長らく読んできたブローデルから、こちらの本へ。

安西洋之さんと出会うまで、イタリアという国というか地域というか、もちろん知ってはいたし、嫌いではなかったけど、さほどの興味も持っていなかった。が、出会って以来、当然のようにイタリアという存在が、私の意識のなかで占める範囲を拡げてきたことはまちがいない。ちなみに、まだいったことはない(笑)

今回から読むこの本、一般的にイメージされるイタリアの明るさと対になっている暗さや闇を併せて描こうとしている。イタリアに限らず、何事につけてもそうなのだが、私たちはすぐにラベリングをして、わかりやすい符牒で「分類」してしまう。しかし、たいがいの事象は、そうわかりやすくはない。読みやすいこの本を通じて、そういったイタリアの多層性にちょっとでも触れられればと思う。

摘 読。

著者が言うように、「料理は意味を持つ記号の体系」である。この章で明らかにされるのは、「イタリア文化における料理の歴史、シンボリズムとその意味」である。観念的で象徴的な要素と、生活とのかかわりが、この章で論じられる。

イタリア料理が日本に普及し始めたのは1980年代後半から1990年代にかけてのことであるらしい。その際に留意したいのは、日本において広まったイタリア料理は、「国際的に広く評価されている現代イタリア料理の体系」と「その体系の日本の独自の解釈のしかた(食べ方)」によって特徴づけられる。

ただ、近代イタリアのイメージ構築に大きな役割を果たした17~18世紀の北欧からの旅行者たちは、イタリア半島の人々の食べ物に積極的な興味をほとんど見せなかった。「マカロニ」という言葉は英語圏でイタリア人に対する軽蔑のスラング表現であるらしい(私は初めて知った)が、こういった低い評価が多かった。イタリア料理を世界に広めたのは、19世紀から20世紀(およそ1960年代まで)にかけてイタリアから出国した出稼ぎや移民たちであった。彼ら( / 彼女)らが構築した移民の共同体において、食事は欠かせない重要な要素だった。当初は、それも差別的なイメージでみられていたのだが、次第にアメリカなどでは社会への統合が進み、アメリカ化されたイタリア料理が生活の主流の一つとなっていった。

ただ、日本をはじめとして世界に広まった「イタリア料理」は、あくまでもイタリアという地域の生きた共同体から切り離されて存在している。そこでは、もともとイタリア料理が持っている文脈が忘れられていることが、しばしばある。

そのイタリア料理の文法には、通時的な側面、つまり「何をどんな順番で食べるのか」や、料理の意味をあらわす「意味論的対立」もある。通時的な側面に関しては、人によって、あるいは文化的な文脈によってずいぶん変わることがある。後者に関しては、食べ物そのものの位置づけであったり、あるいは作られ方であったり、さらには歴史的な差異であったり、平常であるか過剰であるかであったりと、さまざまな意味基準によって分けられる。たとえば、日本では一括して「パン」と称されても、イタリアでは甘いパンはデザートとして分類される。このように、食べ物がどう位置づけられるのかを規定するのが、意味なのである。

この章では、ピッツァやパスタについて、歴史的な経緯や調理のされ方などによって、どう位置づけられているのかが明らかにされている。
上記の内容については、ランベッリ『イタリア的』31-40頁を参照のこと。

さて、イタリア料理としてよく知られているピッツァやパスタ、さらにはよく使われるトマトソースにしても、ジャガイモにしても、大航海時代以降にヨーロッパに輸入され、料理としてかたちを備えるようになったのは19世紀以降のことである。そのきっかけになったのは、1861年のイタリア国建国であった。その集大成を行ったのが、ペッレグリーノ・アルトゥージであった。

この本を通じて、アルトゥージは科学的にも正しく(←ただし、これは当時の科学至上主義という背景がある)、おいしい料理をイタリア人に伝えようとした。その際に注意しておかなければならないのは、このレシピがトスカーナ地方を中心としていたことである。イタリア人の抱くべき市民としての社会的特性は、中世トスカーナの自由国家都市の理念に基づいていたからである。実際のところ、当時のイタリアは貧富の差も甚だしかった。そのなかで、都市型の中流階級を形成させる必要性という背景もあった。

さらに、この本によって料理をめぐる専門用語の共通化も図られた。

この本が出て、普及するまでのイタリア人の食事というのは、その生活レベルや地域によって、大きな差があった。食べる回数も異なれば、内容にも大きな違いがあった。職業によっても当然異なっていた。もちろん、領主やブルジョワジーの食事は、穀物のスープや黒くてかたいパンをわずかに食べて生を繋いでいる庶民の食事と懸け離れた豊かなものだった。

そして、トマトソースをパスタに用いることを広めたのも、アルトゥージの本の功績の一つであった。

イタリアにおいて、ルネサンス以降から近代以前まで、多くの人々が肉を口にすることがなかったという点は、記憶されていいだろう。口にできなかったのである。

このような背景を踏まえると、今ではうずもれてしまった料理のシンボリズムが浮かび上がってくる。無発酵のパンが聖体として位置づけられたのに対して、発酵パンは日常的で、キリストの魂を包含するものとして描かれていた。このような歴史的経緯を顧みれば、パンとパスタが全く別の文脈、そして意味を付与されていることが浮かび上がってくる。

そして、これらの料理がどのような祝祭において出されたものか、という点も重要になる。こういった祝祭によって前景に現れる季節感覚が、近代農業における生産活動にも根づいている。季節関係なく、さまざまな素材を収穫できるようになった日本とは異なるところである。

このように、料理にはイタリアという国、さらにはイタリアにおけるそれぞれの地域での歴史や風土、さらには自然地理的環境など、多くの生活の背景ないし文脈が根深く残っている。こういった特徴は、標準化やファストフード化によって失われつつある。その一方で、地域の家庭料理などをベースにローカルとグローバルを関係づけなおす試みもある。

私 見。

ランベッリもブローデルを引用しているあたり、偶然とはいえ、奇妙な縁を感じる。物質文明あるいは物質に焦点を当てた生活把捉のおもしろさが、この章からも浮かび上がる。

ことに、食べるという営みは生きることに直結する。今のように物流が整っていない時代にあっては、その地で食べることができるものが料理に用いられたわけである。もちろん、それゆえに貧富の差が大きかったし、地域での差異というのも大きかった。しばしば批判される資本主義経済体制、なかでも画一性の強いIndustrialismと、それに対するcountervailing powerとしての労働組合運動や社会主義運動とのせめぎあいといった20世紀の動きは、もちろんさまざまな問題やひずみを生みだした一方で、「分厚い中流階級」を成り立たせもした。その動きは、それぞれの地域が持つLocalityを消失させる強い作用をもたらした。

これを弁証法的運動と呼んでいいものかどうか、迷うところはあるが、ある方向性が強くなりすぎたときに、それに対するcountervailing powerがどう生まれ、どう作用するのか、そしてそこからどういうAufhebenの可能性が描き出されうるのかという図式は、歴史の動きを考える際に有効ではあろう。ただ、二項対立的図式に陥ってしまうのはまずいだろう。

さて、日本でも、正月になると「どんなお雑煮を食べてるのか」が話のネタになる。私は生まれてこの方、ずっと関西住まいなのだが、家は九州や山口由来なので、すましに丸餅、鶏肉、三つ葉、根菜の類という取り合わせ。関西風の白味噌雑煮はほとんど食べたことがない。

わがやのお雑煮。

ちょっと前に話題になった秋田の「いぶりがっこ」も、その土地の気候や風土、農業、生活スタイルなどに大きく影響されて生まれてきたものであろうし、より広く発酵文化というのは、こういった地域ごとの生活スタイルが結晶化した一つのありようといえるだろう。

この後の章もおもしろそうなので、楽しみ。

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