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生活と信仰、宗教。イタリア人の愛の表現は、聖母マリアへの憧れであるらしい。ランベッリ『イタリア的:「南」の魅力』を読む(2)

いきなりですが、私はときどきミュージカルも観ます。そのなかで、観に行くたびに泣いてしまうのが、これです。これは映画版。

有料なので、リンクがうまく貼れているかどうかわかりませんが、『レ・ミゼラブル』です。このなかの終盤に、confessionという単語が出てきます。字幕では「告白」と訳されてるのですが、今回の章を読んでいると、これではconfessionという言葉の持つ意味合いが、ちょっと薄くなってしまうのではないかと思ったりもしました。

『レ・ミゼラブル』はフランスが舞台ですが、カトリックということでは、ひとまずイタリアと近いと考えてもよさそうな。違うかったらごめんなさい。

今回は、これの第2章です。

摘 読。

イタリアにおいては、近代化の過程でカトリック教会や伝統的な信仰は徐々に社会的な基盤を失った。ただ、もっとも深刻な打撃は戦後の高度経済成長にあった。1950年代から60年代にかけて、トリノ、ミラノ、ローマを中心に大規模な都市化が生じ、イタリア南部から大勢の出稼ぎが北部の工業都市に移動し、伝統的な信仰の社会基盤が崩れ出した。さらに、1974年にはカトリックでは認められていなかった離婚を認める法律が、さらに同じくカトリックでは認められていない妊娠中絶を認める法律が1980年に国民投票で容認されたこと、カトリック教会と密接な関係を持っていたキリスト教民主党が1990年代初期に解体されたことなど、急速にカトリック教会の影響力は減退していった。それに呼応するように、無宗教や宗教に関心を持たない人たちの割合も増えてきた。

ただ、これはイタリアの人々の生活において、カトリックの影響が失われたということを意味するわけではない。神という存在は、イタリアの人々の生活や文化に深く根づいている。

そもそも、神という存在も日本とは大きく異なり、唯一神であり、絶対神である。全知全能であり、世界の創造者である。

ちなみに、最近ちょっと話題になっているこの漫画はおもしろい。

カトリックにおいては、父・息子・聖霊という三位一体の考え方に立つ。父は神そのもの、息子はイエス・キリスト、聖霊はこの世に働く神の意志のことである。父である神が救世主として遣わしたイエス・キリスト、そしてその亡き後は聖霊のはたらきをもって、自らの意志をもって現世に介入するという考え方のようである。この三位一体という考え方には、古代から伝統的な地中海世界の文化に独特の、家父長制において理想化されてきた家族イメージがある。

ただ、カトリックにおいて特徴的なのは、聖母マリアへの信仰が強い点である。これはプロテスタントには見られない。カトリックにおける祈りは「天にまします我らの父」と、聖母マリアに捧げる祈り=アヴェ・マリアである。この聖母マリアの聖地では、人々は己と身内の死後の祝福や現世利益を祈る。

さらに、聖者に対する信仰もある。カトリックにおいて、聖者は地域のシンボルとして、その地方の共同体を保護すると信じられることで、その共同体を統合させ、アイデンティティの構築に貢献する。ここから地方独自の祭りが生まれたりする。その点で、日本の「神」とも近いところがある。ただ、カトリックの聖者は絶対的な神ではない。そもそも、カトリックでは多くのプロテスタントの宗派とは異なり、神だけに祈ることはない。キリスト、聖母マリア、そして聖者に祈ることが多い。聖者は人間と神やキリストのあいだに立つ介在者と位置づけられているわけである。これは、聖書に書かれていない。一種の宗教集合なのである。カトリックが異教の習慣などを完全に否定したわけではないことが、ここから窺われる。祝日に、そのあたりの混淆が色濃く残っている。

カトリックにおいて重視されるのが、神との人とのあいだでの介在である。教会は聖なる秩序をこの世に実現しようとする共同体が具現化されたものであり、ミサの根本メタファーはキリストの最後の晩餐である。こういった、カトリック的な宗教観がイタリアの人々の生活をかたちづくっているわけである。人々の生活というのは、その時々だけでなく、生まれてから死ぬまでのさまざまな秘蹟=洗礼、告解、聖体拝領、堅信、婚姻、終油、叙階にも、カトリック教会と人々との関係性があらわれる。ただ、すべての人が熱心な信者というわけではないことにも留意する必要がある。

死後の世界、とりわけ地獄についての話もおもしろいのだが、際限なく文字数が増えるので省略。

『イタリア的』74-78頁。

このように、カトリックの思想と実践は、イタリアにおける人生観や社会観に濃厚な影響を及ぼしている。もちろん、文化にも、さらには動物などを含む自然に対しても。そして、家族観や恋愛観にも。そして、絶対神のもとではみな平等であり、神が自由意思を認めるというところから民主主義や自由主義、社会改良をめざす運動の前提にもなった。救済が確実ではないことから生まれる不安や恐怖=悲観と、個人的にいろいろ工夫すれば ——聖者などの介入を求めることで―― 何とかなるだろうという希望=楽観がイタリア人の根本的な人生観のもとにある。

私 見。

私がプロテスタント系の大学を出たからというわけでもないだろうけれども(そんなにキリスト教にはまったわけではない。何なら「キリスト教学」という科目の成績が良すぎると、かえって就活に悪影響が出るなんていう噂まで流れてたw)、カトリックの宗教観の懐の深さを垣間見ることができた章だった。

これは、ドイツ語圏における研究なのだが、増田正勝先生(山口大学名誉教授)は、ドイツにおけるカトリシズムが経営学や経営思想、さらには経営実践(特に、パートナーシャフト=ドイツにおける労資partnership)にどのような影響を与えたのかについて、長年、丹念な研究を重ねてこられた。

増田先生の研究を見ていると、カトリックは現世のことをあくまでもカトリック的な人間観、社会観、労働観などに立って、経営に対しても指針を示そうとする姿勢が窺われる。ちなみに、回勅という言葉、私は増田先生の研究で初めて知った。

こういうことを考え合わせると、カトリックの現世とのかかわりあい方が浮かび上がってくるようだ。翻って言えば、プロテスタントの現世とのかかわりあい方こそが、近代を生み出したというヴェーバーの議論もまた想い起こされてくる。

あと、個人的におもしろかったのは、カトリックがそれまでに存在した異教の習慣を織り込んでいるということ。ついついキリスト教ときくと、純一性を重視しているかのように思ってしまう。もちろん、本章からもわかるように、唯一神・絶対神を最上位に置くというのはもちろんであるが、とりわけ聖者の存在が興味深い。仏教も曼荼羅などで示される諸仏のなかにはヒンドゥー教の神々が入っていたりするし、そもそも日本では神仏習合が明治維新以前までの基本だった。

近代というのは、どうも純化(その窮極が、原理主義)ということに一つの原理を置いているとみてもよさそうである。近年の近代批判は、これに対する反動という側面もあるのかもしれない。だとすれば、それが原理主義的な色彩を帯びてきたとき、その動向に私たちは警戒してよいだろう。

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