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言語には限界がある。しかし、言語は可能性をも描き出せる。クリッペンドルフ『意味論的転回:デザインの新しい基礎理論』第4章第1節&第2節メモ。

私が現在、定期的に参加しているオンライン勉強会には3つあって、一つは「文化の読書会」、もう一つが「デザイン文化の会」、そして「サービスデザインネットワーク日本支部:サービスデザインシステムの描き方WG」。

ちなみに、Xデザイン学校大阪分校のパーソナルコースもオンラインで、勉強会というか、ゼミの感覚です。

このうち「文化の読書会」は、本を決めて、ちょびちょび読書メモをnoteに書きながら、2週間に1回くらいの割合で進めています。

今見たら、もう120本にもなってるんですね。4人でなので、一人平均30本。

noteに定期的に書いているのは、この文化の読書会だけなのですが、「デザイン文化の会」の今回の章は、個人的にもおもしろいので、noteに擲り書きしておこうと思います。

ちなみに、今読んでいるのはこの本です。

今回は、第4章「言語における人工物の意味」。ここにいう「人工物」の原語はArtifactです。このArtifactという単語、どうも「人工物」という訳語がしっくりこないので、以下においても原語のまま使います。以下、摘読に私註を加えながら。あくまでも、私の読書メモですので、論文ではありません。また原書が手許にありませんので、訳書に依拠しています。

「すべてのArtifactの運命は、言語のなかで決定される」という命題(序)

この章においてのみならず、本書を通じて、クリッペンドルフは一貫して「対話」や「言語」を基礎に置く。第4章では、その方向性のヴォルテージが一気に加速する感がある。もちろん、絵などの表出方法を否定しているわけではない。ただ、クリッペンドルフはデザインのプロセスにおいて、言葉の役割が見過ごされやすい点に留意を要求する。

そこで、まず提示されるのが「すべてのArtifactの運命は、言語のなかで決定される」という命題である。ここにおいて重視されているのは、「ステイクホルダーがお互いに語りあい、演じるナラティヴのなかで、Artifactがどのように生を与えられるか」という点であり、それが結果として「Artifactが仕えるように」なったり、「使えないように」なったりする。ここには、言語の社会的な性格を重視する議論が下敷きにある。そしてまた、言語もまた自己再帰的な性質を持っており、言語の使用を通じて、継続的に再構成され、洗練されるArtifactとして捉えられる必要がある。その点において、言語もまたつねに作られつつある経過のなかにある世界の一部である。デザイナーは、世界を変えようと試みる以上、言語を創造的に扱わなければならない。

こう考えると、インターフェイスという考え方は一人のユーザーから第三者へ、さらにステイクホルダーの共同体へと拡大される。この共同体には、ユーザー、鑑定家、解説者、特別の興味がある人々、わずかな興味を持つ傍観者が含まれる。ステイクホルダーは、Artifactあるいは技術の特定の類にかかわりがあるということによって、自分の立ち位置を明らかにする。

そういったステイクホルダーたちが用いる言語のなかでArtifactは概念化され、構成され、コミュニケートされる。そのなかで、意味が取り決められ、そのArtifactの運命が決められる。それらは、何らかの基準によって記述したり、測定したりできるものではなく、あくまでもArtifactにかかわりのあるステイクホルダーが理解できる言葉で説明されるべきものなのである。それゆえにこそ、ここで重要なのは「独り言の意味の理論」ではなく、「対話の意味の理論」なのである。

Krippendorf_訳書174_言語とコミュニケーションにおけるArtifact(図4.1)

図4.1 言語とコミュニケーションにおけるArtifact(訳書174頁)

調整過程としての言語(第1節)

クリッペンドルフは、言語を概念化するための4つのアプローチを区別する。

(1)記号とシンボルのシステムとしての言語
(2)個人の表現を媒介するものとしての言語
(3)解釈を媒介するものとしての言語
(4)話者の知覚と活動を調整する過程としての言語

このうち、(1)はソシュールやパースなどにみられる論理実証主義の考え方で、言語を表象の媒介と捉える。したがって、妥当性基準は、その言語表象が真か否かという点に置かれる。(2)は、文芸作品の理解の基礎になっていることが多い考え方である*。

* ただし、ここには若干の留保が必要だろう。文芸作品における言語は、たしかに作者の表現を媒介するものではある。しかし、それだけにとどまるような議論は、受容美学のアプローチの展開を考えれば、やや狭小にすぎるようにも思われる。

(3)に関しては、共同体に立脚した解釈に言語の用法の正当性を求めようとする考え方である。ここで参照されているハーシュ(Hirsch, E. D.)は、もともと作者の意図に即して文芸解釈を考えようとしていたようだが、そののち文化リテラシー(Cultural literacy)が重要であると考えるようになる。ハーシュに関しては、かなり毀誉褒貶があるようで、ここではこれ以上の深入りはしない。危険な臭いのする考え方であるとはいえそうだ。

クリッペンドルフが採用しようとするのは、(4)である。オートポイエーシスの議論でも知られるマトゥラーナ(Maturana, H. R.)の考え方をベースにしている。ここでは、意味は共同体のメンバーが共に生きている方法のことをさす。現実を共同で構成し、相互理解を発展させ、メンバー相互とメンバーの持つArtifactの概念を定めるのが、意味である。つまり、(3)と異なるのは、共同体での言語的実践、つまり使われるかどうかが妥当性基準となるのである。これは、時枝誠記の言語過程説にも近そうだが、ここもよく考える必要があろう。

この(4)の考え方に立つと、調整の過程としての言語には以下のような特徴を見出すことができる。

(a)言語の使用は注意を向ける
(b)言語の使用は近くの枠組を設定する
(c)言語の使用は事実をつくり出す
(d)言語の使用は関係的である
(e)言語の使用は身体化された現象である

ここからわかるのは、言語が人間のやり取り(対人のみならず、対物、さらには物を媒介した対人など)において過程的に生み出されつつ、そのプロセスのなかで人々の知覚の枠組を形成したり、ある事象を「事実」として確定させたりするということである。そして、言語が共同体的特徴を持つということは、同時に他の誰かによって理解されるという期待のもとで、誰かによって語られているということを意味する。ナラティヴという概念は、まさにこの点を衝いている。というのも、その人の「語り」として生み出されるナラティヴは、誰かによって聞かれることを前提、もしくは期待しているからである。さらに、最後の身体化という点に関していえば、意味は人間の身体の外側には存在しないということがポイントになる。このあたりは、ギブソンのアフォーダンスの議論とも接するところがあろう。

このようなクリッペンドルフの言語をめぐる理解は、社会構成主義に近いといえる。

次回に読む第3節において、ふたたびクリッペンドルフは美学への批判的議論を展開するのだが、社会構成主義的な観点に立脚した美学の可能性は十分に考えられうるであろう。

カテゴリー(第2節)

共同体のなかで、あるArtifactが名づけられるのは、必ずしも恣意的なものではなく、生活実践のなかで区別がなされ、カテゴライズされる。この区別は、共同体メンバーが、メンバーどうし、そしてArtifactがメンバーに対してできることに関して、自分たちの知覚と行為を調整できるようにするという意味で、適切なのである。ここに浮かび上がってくるのが、カテゴリーである。名詞は、その存在のカテゴリーを想起させる典型的な詞辞である。

あるArtifactが、どのようなアフォーダンスを、その人、あるいはその共同体に属する人たちに対して発するのか、それによって、そのArtifactへの名づけがなされる。これに関して、Rosch, E.はカテゴリーを3つのレベルに分けている。上位カテゴリー、基本カテゴリー、下位カテゴリーである。クリッペンドルフの例によれば、「赤ちゃん靴」の場合、「靴」が基本カテゴリーであり、「赤ちゃん(のための)」が下位カテゴリーということになる。上位カテゴリーは、基本カテゴリーをさらに抽象化したもので、例えば「履物」などが考えられよう。また、上位カテゴリーを考える一つの例として、IBMという社名をあげることができる。IBMの前身はタイプライターを造っていたが、International Business Machinesと社名を変更することで、新しい上位カテゴリーを生み出し、それが製品開発の方向性を決めることになった。

言語は、人々の知覚や活動の調整過程として位置づけられるわけだが、その際に必ず生じるカテゴライズによって、人間はArtifactを生活実践のなかに位置づけることができる。

このあたりを読んでいて、昔、ゼミの輪読文献として、アーカーの『カテゴリー・イノベーション』を読んだことを思い出した。思い出しただけだが。

ここまでに関して。

ちびちび読んでいくので、今回はここまで。このあと、形容詞をめぐる議論やアイデンティティ、メタファー、ナラティヴなど、興味深いテーマが続いていく。なので、全体的な議論は、第4章を読み終わったところでもよさそうだが、現時点での感想めいたことを。

クリッペンドルフはデザイン・ディスコースということを強調する。このディスコースは、まさに今回のところで触れられたステイクホルダー間での対話をさす。ここには、Artifactをめぐる感性的知覚や意味解釈の相違なども浮かび上がってくる。クリッペンドルフは内容分析に関する本も出しているくらいなので、言語学の動向はつかんでいたとみてよい。

言語によって世界を「創造」するというのは、詩的言語をめぐる議論とも重なって、ひじょうに興味深い。じつは、和歌の研究においても、そのあたりを意識した議論はあって、以下の本は個人的にすごく興味深く感じている。

和歌というのは、単に景色や心情を個人レベルでの感興に任せて詠んだものではない。そういうのも、もちろんある。しかし、基本的には勅撰和歌集での巻立て・構成という共同体的な美的規範に即している。藤原為家が実質的に推進したとされる『新撰六帖題和歌』(形式的主催者は、衣笠内大臣藤原家良)が「誹諧歌」が多いと批難されたのも、そういった共同体的な美的規範から逸脱するものが少なくなかったからだろう。さらに、その少しあとに一瞬の隆盛をみた京極派和歌は、唯識などに立脚しつつ、表層的には清新な叙景の和歌や心理を分析的に描写した和歌などで一時代を画したが、やはり猛烈な批難にさらされもした。

クリッペンドルフのデザイン・ディスコースの議論、さらにいえば、それを受け継ぎ、意味のイノベーションという考え方へと展開したベルガンティの議論は、単に個別のProductレベルでの新しい〈意味〉の提示を重視しているというよりは(それも含まれるので、軽視しているわけではない)、そこから広がる〈意味〉をめぐるディスコースを通じた、個々のアクター / ステイクホルダーにおける咀嚼と消化、そして身体化、さらにつづくディスコースという、意味生成のダイナミックなプロセスを描き出そうとするところに、その核心があるとみることができよう。

このプロセス自体は、ヨーロッパだけに限られたことではなく、こと和歌史を見ていると、日本でも十分に援用可能であるように思われる。

うむ、だいぶ話が逸れました(笑)



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