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祝祭としてのPolitica。ランベッリ『イタリア的:「南」の魅力』を読む(4)

文化の読書会、ただいまこの本を読んでます。今回は、第4章「イタリアア政治の不思議な世界」。

前回のnoteで私見として書いたのだが、ヨーロッパにおける「政治」の日常性というのは、日本における状況よりもはるかに深く根ざしているように感じる。

刊行年次の関係で、この章ではベルルスコーニ (Berlusconi, Silvio)についても言及がなされている。ただ、それから15年以上が経っていることもあるので、そのあたりは適宜省略するかもしれない。

摘 読。

イタリアでは、町の広場でたむろしている人たちがしょっちゅう政治の話をしているという。政治家の発言への反応だったり、諸政党の立場についてのコメントだったり、政府の政策への意見だったり、話し手の政治思想の表明だったり、国際関係や他国との比較だったりと、多岐にわたる。しかも、それは理性的というより、感情も入って非常に激しい議論になることも多い。1990年代以降、政治に無関心な人も増えたというが、やはり政治はイタリア人が熱中するテーマの一つである。

投票率も高いし、よくデモにも参加する。暴力をふるおうとする過激なグループが参加するものもたまにあるが、総体的には祝祭的な要素が多い。諷刺的な姿勢も織り込みつつ、歌ったり踊ったりしながら町の中心部を歩くのが、イタリアのデモによくみられる光景である。

さて、イタリアの政治では右翼左翼という表現が普通に登場する。ここには暴力的な意味合いはなく、議長からみて左側に座っている議員は多くが革新的で、右側は保守的あるいは抵抗的な議員たちであった。議長の正面に座っているのが、中道である。このような分類は、ヨーロッパでは今でも残っているという。なお、過激な運動をする場合は極右極左という呼び方をする。

1990年代の政界再編まで、イタリアの選挙制度は比例制で、投票全体の1%を獲得できれば、国会に数人の議員を送り込むことができた。それゆえに、政党の数が多くなりやすい。とはいえ、1990年代まではキリスト教民主党と共産党が多くを占めていた。前者がだいたい40%、後者がだいたい30%であったという。他に、中道左派に属する社会党、社会民主党、共和党などが、中道右派には自由党があって、これらが戦後の憲法制定にもかかわったことから立憲政党群と呼ばれる。もちろん、これ以外の政党も存在した。

イタリアでは、首相がよく変わるので政治が不安定だと思われがちであったが、第二次世界大戦後から90年ごろまではキリスト教民主党がつねに政権首班を占め続けた。そして、共産党以外の政党と連立政権を構築していた。その点で、安定していたともいえる*。

* この構図は、日本における戦後の自民党体制と似ているものがある。

イタリアの場合、政党の事務所は建物の2階や3階にあり、1階にはバールがあった。当然、そこではその政党を支持する人たち —人といっても、男性がほとんどであったことには留意が必要である— が集まっていた。ただ、政治の話ばかりをするのではなく、民謡や歌謡曲のコンサート、社交ダンス、地域の家庭料理を楽しんだりしていた。もう一つ留意しておきたいのは、イタリアにおける政党は、大きな地域差を持っているという点である。それぞれの政党も、地域によって強力な地盤を持っていた。

ただ、こういった戦後のイタリアで活動してきた諸政党は、キリスト教民主党や共産党を含め、1980年代に頻発した汚職によって、解体・分裂していった。そのあとに登場したのが、イタリアのメディア王だったベルルスコーニである。

さて、こういったイタリアの政治の背景にはどんな文化があるのか。ランベッリは、ここで「不信の文化」を指摘する。一般的に、陽気だと思われがちなイタリア人であるが、あくまでもそれは建前で、本音は悲観主義であるとする。その根底にあるのが「不信」である。その対象となるのは、たとえば権威や権力を持った人、その立場に立つ人、そして家族や友人という身内のネットワークの外部にいる人である。このような「不信」の文化が根づいているところから生まれたのが、furbiziaという「頭を使って生きる」「狡猾」「利口」「抜け目なさ」という肯定的にも否定的にも響く言葉であらわされる姿勢である。このfurbiziaは、生きていくうえで欠かせない、鋭い状況や性格の読み方・解釈力であり、相手の考えや希望、行動をある程度まで予測しながら自分の対策をうまく取る能力も含まれる。これは、ファッションやデザイン、芸術にも必要である。その意味で、不信というネガティブな背景から生まれたものではあるが、同時にイタリア人の能力の基盤ともなっているわけである。

もう一つが、家族主義である。イタリアでは、家族と社会と国家という3つの要素が独特のバランスを取りながら(時に偏りながら)展開されてきた。この「家族」という制度を強化し続けてきたのが、カトリック教会である。いわゆる三位一体は家族の象徴でもある。それが、家庭内での権力の構図にもなったし、儀礼や祭りによって、その関係性は強化されもした。食事もまた、祝祭的な時空において家族を中心とした「仲間」との関係をあらためて意識し、強化していく役割を持っていた。

この「家族」というのは、いわゆる中核的な家族だけでなく、親友も家族と同様に扱われる。イタリアにおいて、知り合いはたくさんできるが、親友という関係を成立させるのはきわめて困難である。そのような関係を持つまでには、かなりの試練を乗り越える必要がある。当然、そういった性質を持つ「家族」はきわめて強い紐帯となる。イタリア人にとって、伝統的に国家は遠い存在であり、社会は敵対的な空間である。となると、この「家族」が持つ意味はきわめて大きいということになる。同時に、それがイタリアに民主主義を根づきにくくさせてしまう要因ともなった。

マキャヴェッリの『君主論』が、時として非道徳的で冷笑的であるとされるのは、こういったfurbiziaの伝統を考えれば、当然のことで、それを正当化したことに問題の一端があったとランベッリは指摘する。こういった心性はランベッリによれば「後進的で従属的な文化によくみられる」。実際、20世紀初頭の詩人・パスコリはイタリアを「偉大なるプロレタリア国」と定義した。こういった先進国に対する劣等感がヴェルディの『アイーダ』や、サルガリの冒険物語にも顕著にあらわれている。

本章のなかでも触れられているが、二度の世界大戦でイタリアはもともと同盟国 / 枢軸国側に属しながら、いち早く連合国側に移っている。第一次世界大戦での同盟離脱は、当時マンハイム商科大学で学長をしていたニックリッシュの講演においても批難的に採り上げられている。こういった動きも「食い物さえあれば」、フランスでもスペインでもかまわん」という諺と重なり合う。

こういった心性のもとでのイタリアにおける政治参加は、カーニバルとユートピアという概念によってよりよく説明できる。カーニバルは、祝祭的な時空において現存の秩序を停止させ、一時的に、また制限された空間内に、反秩序を形成させるという特別な文化装置である。つまり、日常を逆転させた一時的時空なのである。これは、被支配者にとっての解放である。しかし、建設的であるとは言えない。ただ、それがよりよい社会の夢、つまりユートピアとして描き出されることもある。イタリアにおける共産主義と、それへの憧れ / 理想化は、まさにユートピア的発想によるものといえる。

そう考えると、最近翻訳が出たネグリ / ハートの本がめざすところも、少し理解しやすくなるかもしれない。

私 見。

この本が書かれたのは、もう15年以上前のことである。それゆえに、今のイタリアの現実政治と同じようにみていいのかどうかは、ちょっと留保したいところではある。けれども、歴史的な観点で見た場合に、イタリアの政治がなぜああも「渾沌と」しているのかは、少しわかるような気がする。同時に、京都との類縁性を感じずにはいられない。

やはり、世俗的な部分とidealな部分とがつねにせめぎ合いながら、ダイナミックに展開しているおもしろさというのは、イタリアの場合に、特に感じるところ。詩をはじめとする文芸や絵画、彫刻といった芸術と、政治、経済、そして日常生活が混融している。当然、functionalに切り分けることができなくなる。

おそらく、こういうところに放り込まれると、慣れなくて大変だろうとも思う。けれども、慣れるとそれなりにやっていけるのかもしれない。

その意味で、この読書会でご一緒している北林さんの試み、企てが、すごく捨身の行に見えてきました(笑)

こういった渾沌性を後進的であると難じることは、それほど難しいことではない。私も、こういうのはたぶんしんどくなりがちだ(笑)けれども、こういった側面は、やはり人間社会の基底をなしていると考えるほうがよいとも思う。新自由主義の思想的頭目の一人に位置づけられるハイエクが「自生的秩序」といったのは、もちろん彼はイタリアではなく、オーストリア・ウィーンの出身であるが、こういった伝統的な〈保守〉というものの特質を捉えていたからだろう。ハイエクやミーゼス、その源流に位置するメンガーなどが計画経済を否定したのは、もちろん経済活動(収益獲得)の自由を主張しようとしたという側面が濃厚にあるにせよ、計画だけで人は動かないし、人間の知識は時と状況によって変化するということに目を向けていたからである。

その意味でも、ヨーロッパ思想をわれわれが理解し、摂り込もうとするとき、こういった地層深くに存在する生活、政治といった事態への向き合い方を踏まえておかないと、蓮の種を砂漠に植えるようなことにもなってしまうのかもしれない。


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