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〈地域〉という時空間を捉える。F.ブローデル編『地中海世界』摘読(7)「空間と歴史」総括。

安西洋之さん、澤谷由里子さん、北林功さんと一緒に続けてきた〈文化の読書会〉も、いったんブローデルの『地中海世界』の前編にあたる「空間と歴史」を通読しました。

今回は、ここまでの総括を。

自然地理が人の行動を方向づける。

いうまでもないことだが、人間の行動、その歴史的なパターンとしての文化は、人々が住まう地理や気象などに左右される。それは「陸地」「海」の章において考察されていた。

人は、陸地のうえに住まう。しかし、より豊かな生活を求めて、自らが生み出しえないものをやり取りしあう。それが交易である。その交易の場となったのが、海であった。その海も、人にとってはきわめて厳しく険しいものであった。

こういった自然地理的条件をまず踏まえるというのは、人間の生活史の全体像を捉える際の基盤になる。もちろん、単純な因果関係ではない。が、それが後景となっていることは重要な点であろう。

生活、そして交易。交易、そして生活。

生活するうえでの地理的限界は、交易をもたらす。もちろん、交易が生まれるのは、それだけではない。ただ、ある土地においては生み出されるが、他の土地においては生み出されていないものが、相互にやり取りされるという事態、それが交易である。

仮に交易が生活の必要上からなされたとしても、それは異なる文化の交流をともなう。そもそも、交易はたんなる経済的なやり取りというだけでなく、儀礼的な側面も色濃く持っていたからだ。文化と経済は、しばしば別物として扱われる。しかし、現実は逆であるとみるべきであろう。文化と経済は、きわめて密接につながりあっている。むしろ、生活というのは文化と経済が織りなされて浮かび上がってくるものだとさえいえるかもしれない。

都市、あるいは国家。ポリティークという考え方。

交易によって、人の生活は変化していく。そのなかで、人の集積が生まれる。そこに生じるのが、都市であり、国家である。ローマはその一つの典型例であった。

ポリティークという言葉が、今、意味するところは、まさに〈政治〉である。ただ、その原義に遡るとき、まさに都市国家(ポリス;πόλις)の方針(policy)を定めていくこと、それこそが政治 / 政策形成(politics)であり、その仕組みが政体(polity)であることがわかる。

この点は、エマールが執筆した「空間」の章でも考察される。

家政と政治の関係性は、現代における実態をそのままに例として考えるのではなく、いったん抽象化して捉え返す必要があろう。そういった考察は、マンズィーニが取り組んでいるソーシャル・イノベーションの議論にも資するし、さらには経営学にとっても重要な視座を提供してくれる。

重層的に歴史を捉えることの重要性。

ある意味で、「歴史」の章はブローデルが自らの歴史把捉の視座を示しているとも位置づけられよう。

ブローデルは、歴史を文明の層と政治・経済の層の二層から描き出している。より厳密には、文明の層の基底に自然地理という層があるし、政治と経済も層として分離させることもできるから、四層構成とみることもできる。

しかも、それらの層は単純に重なっているのではなく、複雑に入り組んでいる。その入り組んだ姿を、各層を意識しながら描き出そうとするところにブローデルの狙いがある。

こういった歴史記述は、きわめて大掛かりであるがゆえに、現代においては困難であるのも事実だろう。しかし、それぞれの層を丹念に掘り起こし、それぞれの層のつながりを明らかにしていくという、いわば考古学、あるいは地質学のようなアプローチは、さまざまな事象の関係性を考えていくという点で、システム思考にもつながる*。

* 世界システム論を唱えたウォーラーステインが、ブローデルの影響を受けているというのは、その点でひじょうに理解しやすい流れである。

あまり壮大にすぎる議論は個人的に好むところではないけれども、さまざまな関係性を見据えたミクロ⇄マクロの往還にもとづく生活史的なアプローチは、これからの可能性を内包しているようにも思う。

【余滴①】ヨーロッパの古層

今回の連続読書会を通じて、何となくは知っていたものの、キリスト教以前の地中海世界、あるいはその周縁の北欧世界の古層にいくばくの関心が向いた。

もともと、だいぶまえにエンヤというアイルランドの歌手の歌を聴いていた時期があって、ケルト文化には興味がないわけではない(すみません、それほど強烈な関心というほどでもないですw)。

↑これは持ってます。

あるいは、『地中海世界』でも若干言及されるだけの正教会地域における文化など、ヨーロッパにおける多様性、多層性にも、少なくとも以前よりは関心を抱くようになった。

日本文化に関しても、きわめて一面的な理解が多くて辟易することこの上ないのだが、どの地域の文化であれ、さまざまな要素が関係しあっていることを踏まえて、その重層のありようを解き明かしていくのは、きわめて重要なことであろうと思う。

【余滴②】ギリシャ・ローマ文芸へのいくばくかの関心から(機能性・)審美性・倫理性にもとづく共同体理解へ

個人的に、もともと日本の古典詩歌や能に関心があるのだが、それと絡んで沓掛良彦の著書などを買ったりしたことはあった。

あと、なぜかルクレーティウスの『物の本性について』も岩波文庫版で手に入れていた。最近、解説も出たので、購入済み。

ここらあたりは、もう完全に個人的な趣味の世界になってしまうが、文芸をはじめとして芸術作品というのは、そこからあえて逸脱するにせよ、それを更新するにせよ、繰り返しなぞるにせよ、すぐれて個人的な営みとしての趣味判断の共有可能性に立脚している。

そう考えると、ある共同体において、いかなる審美性や倫理性が共有されているのかということを、文芸作品などを通じて考えていくというのは、ひじょうに興味深い試みではないかとも思う。

【追記】9月8日の議論に向けて。

9月8日に、西洋経済史をご専門とされている方に、文化の読書会においでをいただいて、質問というか、議論をさせていただく機会を得ました。質問というか、議論の糸口という感じではありますが、以下列挙します。

(1)倫理 / 道徳意識の重層性
今回、『地中海世界』を読んで、直接述べられているわけではありませんが、最も関心を抱いたのが、キリスト教以前の地中海世界と、キリスト教以降の地中海世界における宗教意識や倫理意識、道徳意識の重層性です。これは、単に宗教とか倫理、道徳にとどまるものではなく、究極的には経済行為にもつながっていきます。

一般的に、ヴェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で論じたような理解が浸透しているように思いますが、それ「だけ」で説明しきれるのかどうか。

ドイツの経営実践においても、今なおカトリック経営思想の影響は色濃く残っているとも聞きます。

このあたりについて、おいでくださる先生のお考えなどを伺えればと思います。

(2)審美性の重層性
上記の点とも重なるのですが、審美性というのは、その時々の主体と自然やアーティファクトとの関係性の「あるべき / 望ましいありよう」を示したものといえるかと思います。

そう考えたときに、キリスト教以前と以後でどう変容したのか、あるいはどう重なり合って今に至るのか、このあたりについて、お伺いもしたいですし、議論もしたいなと考えています。

(3)企業の社会における存在のありよう:CSRをめぐる史的考察
これは、おいでくださる先生のご専門であり、かつ私も個人的に関心を持っている領域です。なので、ここについてはぜひいろいろとお伺いしたいところです。

特に、イギリスに主たるご関心があるように業績一覧から拝見しましたので、イギリスにおける哲学・思想との関連性もあわせて議論できると嬉しいなと考えています。








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