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違いがわからない男(ひと)。

わたしはコーヒーが好きです。
仕事中や運転中。散歩するとき、読書するとき、noteを書くとき etc.
いつも手の届くところに、何かしらの容器に入ってコーヒーは存在しています。

では、なぜわたしはコーヒーが好きなのか。
あれこれ考えをめぐらせてみた結果、おそらくはこれか?という結論にさきほど到達しました。それはコーヒーに紐づいた記憶が好きだから。
言い換えれば、鮮明に脳内にこべり付いているシーンにはいつもコーヒーがあったから、なのではないかと。それは必ずしも〈善い記憶〉だけではないのですが、、、

ひとくちに「コーヒー」といっても、ひとそれぞれで。淹れ方に凝る人。産地に凝る人。コーヒーを出すお店に凝る人もいれば、そもそも目が覚めりゃなんでもいい、なんて人もいます。
そんな中で、ジブンはおそらく最も後者。気分を切り替えたいときや目覚めが悪いとき、コーヒーを口にしています。だから豆の種類や挽き方、淹れ方、お店というのは二の次で。安いドリップでいい、そんなかんじです。
だから、わたしは〈美しい記憶〉に紐づいたものを好む。そんな傾向が強いようです。

ひとって元来そういう生き物だろ
好きという感情は自然そういうものだろ
そんな声がふと聞こえましたが、構わず執筆をつづけます。noteは自由です。

だから、わたしの好きなものはおそらく何か〈美しい記憶〉と結びついている。そう考えてあたりを見回してみます。
すると大概の「好き」と認識しているものには、先行する記憶が反映されていて、その記憶自体への憧れ、執着、哀愁なんかが紐づけられてセットで「好きなもの」になっている。そんな思考にふと着地しました。あらたな発見でした。


例えば 読書
もともと本を読むことは感覚的に好きなほうでした。けれどここ数年、熱烈に純文学のような作品だけを読んでいました。その行動にはどんな記憶が結びついているのか。
思い返すとおそらく、昔好きだったあるひとが薦めてくれた泉鏡花が原点のようです。文学部のひととの記憶。その記憶への憧れがわたしを純文学へと志向させているようです。

では、コーヒーは。
ジブンが頻繁にそれを口にするようになったきっかけ。クサい話ですが、父親の癖を思い出します。
幼いころ、わたしの実家は月に幾度か外食をする日がありました。決まって近所のラーメン屋なのですが、食べ終わったあとの父は「口直し」と言っていつもブラックの缶コーヒーを飲んでいました。
いつの頃からか、わたしもその「口直し」を父と一緒にするようになり、そこからコーヒーが常飲されるようになりました。おそらく。
なのでコーヒーは、15年以上前の家族との外食風景、その懐古と結びついているのかなと。こじつけじみているかもしれませんが、、、


だらだらと書いてしまいましたが、わたしの好きなものは〈美しい記憶〉と結びついて「好きな」ものになった、ということがジブンの中での大きな発見でした。それを文章にして残しておきたいなと思ったのが今日。

ジブンはこれからも、なにかの実体験や記憶と結びついたものを「好きなもの」にしていくんだろうなあ、と思います。コーヒーであれば「ブラック」文章家であれば「泉鏡花や織田作之助、坂口安吾、谷崎潤一郎」カメラであれば「レンジファインダー」。といったかんじで。

そういった意味で、わたしは広く他ジャンルも嗜む「違いがわかる」というよりは、一点特化型の違いがわからない男(ひと)であり続けるのかな。まあ、それはそれで悪くないのかな、、、?ふとそう思ったりしました。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
まとまりがない文章ですが、なんだか共感していただけたら嬉しいなと思います。

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