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「鳥がぼくらは祈り、」を読んだ(2023.11.12)

いつも聞いてるTBSラジオの「脳盗」という番組で、MONONO AWAREというバンドの玉置周啓氏が推していた「鳥がぼくらは祈り、」という小説を図書館で借りて読んでみた。

内容はというと、それぞれになかなかハードな事情がある男子高校生4人が、状況に絶望しそうになりながら、それと向き合い、成長(?)していくという、説明するとありふれたような話みたいだが、これが実際めちゃめちゃ普通でない。

何が普通でないかと言うと、文体が、見たことのないような文体なのだ。タイトルからも読み取れるように、句読点が妙なところに打ってあるし、改行の箇所も変だ。地の文と台詞が入り乱れているし、「あれ?これは誰の視点で語られている文章だっけ?」と、しょっちゅう分からなくなる。

たとえば一部引用すると・・

それでぼくらは気になって、いつ映画撮るの。てかいつもなに撮ってるの。と高島がカメラを持ち始めてわりと早い段階で聞いたのだが、
「いや、みんなのこと撮って、映画撮るのよ」
撮ってるのよ。とおかしな日本語で話していた。がそれも当人にとっては論理立っているのをぼくらはわかっていて、詳しく聞くと、
「なんかさ、普通にこう、今話しているときってさ、べつに絶対話してる人のほう見る訳じゃないじゃん」
と高島が言った意味がわからず、池井がぽかんとした表情でぼくを見て、それを見ていたのでそのあとぼくが山吉のほうを見ると眼が合って、
「それ、」
今みたいにさ、俺が話してるけど、お前らいま顔見合わせたでしょ。と高島に言われてぼくら三人は高島の方を見て頷いた。

「鳥がぼくらは祈り、」より

という感じで、慣れるまでだいぶ読みにくい。しかし、この小説にとって、実はこの文体が非常に効果的に働いている。

具体的に言うと、記憶や思考の流れ、または人生(らしきもの)が一つの筋道だった物語、つまりは塊として成り立っているかというと、そうではなく、たくさんの忘れ去られたどうでも良いような出来事、言葉、ちょっとした感覚によって形作られていて、自分で筋道立てて「こうだ」と決めつけている人生とか、考え方は実は嘘で、それは恣意的に自分自身でそういうふうにひとつの物語として便宜的に捉えているものなのである。

というような事が、この文体によって見事に表現されているのだ、と思う。

そういうふうで、読んでいるとそれぞれの登場人物の頭の中を彷徨っているみたいだし、あんまり明るい内容ではないので、途中、辛くなる部分もあるが、それ故に、後半部分のカタルシスがすごい。景色が、視界が、ぱっと開けるようだった。それはあたかも登場人物たちの気持ちの動きを疑似体験しているようで、私は涙が出そうになった。

という、とても貴重な読書体験でした。ので、お時間ある方は是非読んでみてください。(文体を寄せてみました)


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