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地域という言葉を哲学する

山梨県立大学の2人の哲学者、橋本憲幸先生と橋爪大輝先生が「哲学は地域社会の課題解決にいかに貢献できるか」について語り合うトークイベントを2024年1月26日(金)に開催しました。2023年7月、10月に続くもので、今年度3回シリーズの締めくくりとなります。イベントで語られたことを書き起こし、読み返し、一部は加筆し、修正しました。最後まで読んでいただけますと幸いです。司会は兼清慎一(山梨県立大学国際政策学部・地域研究交流センター運営委員)が務めました。

第1回のイベントの内容はこちらです。

第2回のイベントの内容はこちらです。

橋本憲幸(山梨県立大学国際政策学部)
福島県田村市出身。2015年4月に山梨県立大学国際政策学部に着任。筑波大学第三学群国際総合学類卒業。筑波大学大学院一貫制博士課程人間総合科学研究科修了。博士(教育学)。主著に『教育と他者——非対称性の倫理に向けて』(春風社、2018年)など。

橋爪大輝(山梨県立大学人間福祉学部)
東京都多摩市出身。2021年4月より、山梨県立大学人間福祉学部講師。東京外国語大学外国語学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科(倫理学専攻)博士課程修了。博士(文学)。著書に『アーレントの哲学』(みすず書房、2022年)。


地域という言葉で私たちは何を言おうとしているのか

ーー今回のテーマは「地域とは」としました。まずは、橋本先生からコメントをいただきます。

(橋本)地域という言葉が何を指しているのかよくわからないというところがまずあります。「地域社会の課題解決にいかに貢献できるのか」というテーマに直接答えられるかどうかもよくわからないままに一連のイベントも始まっています。貢献とは一体何なのかというところも、決して明白なものではありません。そこを考えていきたい。

今回、地域が主題になっています。地域という言葉を使って語るときに私たちは一体何を語っているのかを確認する必要があります。つまり、私たちは地域という言葉を使ってやりとりするとき何かを共通了解しているように見えたり感じたりしているわけだけれども、少し立ち止まってみて、ではそのときの「地域」は本当は何を指しているのかを考えてみよう、と。地域という言葉を使って私たちは何を言おうとしているのか、それを突き止めたい、突き詰めたい。私たちは本当に「地域」を理解しているのかということですね。

地域はいかに哲学の主題となるか。地域というのは哲学に何をもたらすのだろうか。1回目の議論でも話題になったように、哲学が普遍性を志向するのに対して、地域というのはローカリティというユニバーサリティとは逆のベクトルを持っているように見える。それが哲学に対して何をもたらすのかというところに関心を持っています。

また、地域貢献という言い方に象徴されるように、地域というものは、どうやらよいもの、善なるものとして想定されているようなところがあるのだけれども、本当にそうなのだろうかということも考えてみたい。性格ゆえなのか、哲学だからなのかわかりませんが、よいとされると本当にそうなのかを疑いたくなる。それは誰かが設定した前提から思考を出発するのではなくできるだけ最初から考えてみたいということでもあります。

共同体主義という補助線

地域という言葉の固有性を考えていくときに、ひとつ補助線になると思ったのが、共同体主義=コミュ二タリアニズムという思想です。地域と共同体主義はどの程度同じで、どの程度ずれているのだろうかということです。共同体主義は、日本ではマイケル・サンデルというアメリカの哲学者の主張として有名かもしれません。

共同体主義は、リベラリズムという思想と対立してきた経緯があります。リベラリズムは、個人の自由とか個人の選択を重視する、そういう思想です。それに対して共同体主義は、純粋な個人というものはいないと言うわけですね。人間は、なんらかの共同体の中にすでに生まれ育ってきているのだから、その共同体が持っている文化や規範が染み込んでいる、と。だから個人はすでに何らかの色合いというか負荷を帯びている存在である。まっさらな個人はいない。そういう考えですね。このリベラルとコミュニタリアンの論争が続いてきた。

共同体主義は、個人よりも共同体を先に置き、個というものを共同体に属した存在と捉えるわけですね。それは極端な言い方をすると、個人よりも共同体の方に重きを置くということでもある。共同体の価値を守るとか、共同体の道徳を守る、そのことが上位にあって、個人はそのもとにある。

そうした共同体主義と、地域が大事だ、地域貢献だというときの地域というのは、どう同じで、どう違うのかというのがひとつ疑問としてあります。ここはまだ整理しきれていないのですけども、論点提示というか問題提起というか、思考の補助線として共同体主義に言及したいと思いました。

共同体主義が、かけがえのない個人の自由を言うのではなくて、共同体のほうに重きを置いているところから連想して、地域というのは一体何を何から守ろうとするのだろうということを考えてみてもいいかなとも思いました。

地域という言葉でしか語れないことは何か

地域という言葉にこだわろうとするとき、地域という言葉でしか語れないことは何かという問いの立て方がひとつありうる。地域とはかけがえのない言葉なのだろうか。他の言葉で言い表せるのであれば、わざわざ地域という言葉を持ち出す必要はないわけで、持ち出すのであれば、そこに何らかの固有の意味が付与されているはずで、それは一体何なのか。そのような意味は本当にあるのか。

地域は英語にしづらい日本語だとスライド資料には書きました。対義語や類義語を考えていくと少し見えてくるかもしれない。「地域」と「コミュニティ=共同体」は合致するのだろうか。先ほど共同体主義は、個よりも共同体に価値を置くと言いましたが、地域もそうなのだろうか。ちょっとずれる気もする。

「周辺」という言葉は、「中心」との対比で使われますが、地域は必ずしも周辺ではない。「地方」という言葉を使うと周辺性が出てくるわけですが、地域はそういうものではない。単純に「エリア」と言ってしまっても何かちょっと違う気がする。

「局所」とか「局地」、「ローカル」という言葉が近いのかな。普遍性とか、遠隔とか、リモートとかとの対比で、ローカルという言葉が使われたりもしますけれども、物理的にそこに存在しているという感じが、局所、局地という言葉にははらまれているかもしれない。地縁とかテリトリーとか空間とか伝統とかいう言葉も関連しそうである。しかしそれらでは地域の地域性と呼びうるようなものは表現できないということなのか。その辺りを今日は考えたいと思います。

私が思い至ったのは、人口の減少や資本主義による地域の軽視という背景があって、地域は問題化されるようになったのではないか、と。地域というのは、放置すればよいのではなく、どうにかしなければならないものである、と。そこには、地域には価値があるという見方がくっついている。問題であり価値がある。対処しなければならない対象として、言説や文脈が形成されてきた側面があるのではないかと推論するわけです。

それは逆に言えば、人口が減らなかったら、あるいはその資本主義がつねに地域なるものに目を向け続けてきたら、地域というものがこれほどまでに取り上げられることはなかったのではないかということでもある。

このようにして地域が一体どのように意味づけられているのかと考えたときに、「そこ」に固有の何かを再発見ないし創造し再評価することで、「そこ」を持続、再活性化させるための概念なのではないかなと思ったわけですね。

「そこ」という言い方をいましていて、これはどうにかならないかなと思ったのですけれども、何らかの空間性を伴う「そこ」としか言えない感触もいまあるので、とりあえず「そこ」と言い続けていますが、もしかしたら代替不可能な「地域」という言葉ならではの意味がこの辺りにあるのではないかと考えたわけです。

なぜ「そこ」を持続させなければいけないのか、再活性化させなければいけないのか。そうすると、誰かがやっぱり「そこ」が大事だというふうに思うからなのではないか。そこを持続させたいと思う人がいる。

そうすると、その空間の中に蓄積されてきた時間というか、歴史というか、そういうものがあり、その中で人と人との関係性というものが紡がれてきている。そういう空間と時間と人間の関係性というものが凝縮されているのが地域という概念なのではないのかと考えられる。

人間の身体がそこにあることの当事者性

空間に関して言うと、人間の身体はその空間を離れて存在することができない。物理的に移動する、あるいは前回の言葉で言えば離脱することがなかなか難しい。だからその場にコミットしましょう、という考え方が出てくるわけですね。このコミットという言葉、この言葉にも注意深くありたいと自分でも思いつつひとまず使っているのですが、何かこれとかここなどに関わろうとする一種の意志のようなものだろうと思います。そのコミットメントを地域に向けよう、と。人間には身体があって、どうしてもどこかに存在しないといけない。だから存在しているところをもっとよくしていきましょうという考え方が出てくる。その考え方が出てくると何が起こるか。当事者性という言葉をここで挙げてみたいのですが、あなたこそが、ここ、そこの問題を解決する当事者なのですと、そういうメッセージが喚起されることになる。

当事者性は大切です。しかしそれだけでは済ませられない。当事者性が喚起される裏側で何が起こるかを考える。当事者ではない人、よそ者がそこに入りづらい、そういうことが起きるわけですね。当事者性が強調されると、当事者ではない人はそこに関わりづらくなる。そういう力学がそこでは作動するだろう。

しかし当事者だけで物事を意思決定することも難しいときがある。外部はアリバイか? とスライドに書いたのは、地域の問題を解決しようとするときに、地域の内部の人たちだけで何かをするということはもちろんあるのだろうけれども、その内部の人たちだけではなく外部の人を呼んで何かをすることもある。なぜそんなことをするのか。一種の権威づけなのかもしれない。ここではアリバイという言葉を使っていますけれども、一応、外の人の言うことも聞いておいた、ということが必要になることがある。しかし、聞いたけれどもそのとおりにはやらないということもできる。そして結局その地域の内部の考え方が貫かれることになる。外部をうまく使えばよいとも言いうるわけですが、「内部の考え方」が誰の考え方なのかにも気を付ける必要がありますね。内部というか地域も一枚岩ではない。一部の権力のある人たちの考え方でしかないかもしれない。そうではない人たちが排除されているかもしれない。だから地域の人たちで決めたことだからといって無条件に妥当であるとも言えない。外部が必要ではないか。

非当事者、よそ者が、もしその当事者になりたい、そこに関わりたいと思ったときに、どういう条件が発動するのか考えていると、この踏み絵としての定住と書いてありますが、私もそこに一生住みますと、何かそういう強いコミットメントがないと、仲間に入れてもらえないというところがあるのかもしれず、多くの人はそこでくじけてしまうのかもしれない。だから、当事者と非当事者の線引きが強くなると考えることもできそう。

この、物理的にそこに存在しているのだからそこをよくしていきましょうという考え方と近いと思ったのが、置かれたところで咲きなさい、蒔かれたところで咲きなさいという考え方です。そこにいるのだからそこで花開くように何かしなさいというメッセージがそこにはある。これはその人をその場所に紐づけるような発想だと思います。あるいはその場所にある程度従わせるというか。これが、地域に親和的だと思ったのですね。

収束による可能性の拡張とスライドに書いたのは、地域というものに紐づけられることによって、その人がそこに、これは強い言葉かもしれませんが、いわば閉じ込められるようなことになる。でも、閉じ込められたことによってその地域の可能性をもっと広げていきたいと考えて、そこから可能性が広がっていくことは十分にありうるだろう。そう思いつつも、しかし一種の諦念のような、諦めのようなものがその考え方にはあるのではないか。もう外には出ない、出られない、そこにいなければならない、そういう拘束が働くのではないか。

あなたはそこに存在している、ここで生きている、だからその場所で何とかうまくやっていきなさいというのはその人に強い覚悟を求めている。覚悟というのは他の選択肢を捨象するということですね。他にも別様にありうるという可能性を諦めさせるような、そういう個を——またあえて強い言葉を使いますが——抑圧したり束縛したりするような語感を、置かれたところで、あるいは蒔かれたところで咲きなさいという言い方から、そしてそれと親和的であるかもしれない地域という言葉から拭うことが私にはできないのです。

新自由主義と地域との関係性

新自由主義的な自己責任論との親和とスライドに書いたのは、自治の強制としての地域というところにも関わりますが、先ほど挙げた資本主義による軽視という点により関わってきます。資本主義という経済のルールのもとでは地域は周辺に置かれることになる。行政ですら、利益が出ないとか出づらいとか、そこでやってもペイしないということがあると撤退することがあるわけですね。経済も撤退する、行政も撤退するという状況になっていったときに、どうするかといったら、そこにいる人たちが自分たちで何とかしなければいけないという状況が出てくることになるわけです。これが新自由主義的な自己責任論とすごく親和的だと思いました。

だから、当事者たちは「自分たちでやれ」と直接言われているわけでは別にないのだろうけれども、そうせざるをえない状況が作られている。外堀が埋まっている。やれと言われなくてもその地域が好きだから自分たちで何とかやっていく、そこは自分たちの生きる場所だからと思って何かをしていく、しかしそれは経済からも行政からも見放されている中での唯一の生き残るための道なのではないかとも考えられる。

本人たちはしたいと思ってやっているかもしれないが、それは経済にとっても行政にとっても負担を減らすというか、都合のよいことがそこで起きてしまっているのではないか。それが自治の強制、自治の二面性(自分たちの責任として引き受ける、本来責任を負うべき人を免責する)といまの話は繋がってきて、たしかに当事者自らが主体的に積極的に何かをするという、そういう意味での自治は非常に重要なのだけれども、何とかしなければいけないと思うがゆえに、本来もしかしたら経済が入る余地があったかもしれないとか、さらに行政が何かをしなければならないはずなのに行政がしないとか、そういう可能性を推量しなくなる。それで自分たちでやる、やらなければいけない、やらざるをえないという状況が出現してしまっているのではないか。

本来、行政はペイしないところ、それが見えづらいところにこそ——私の関心から言えば教育がまさにそうです。大学もですね——資源を投じるべきだと考えられるわけですが、その行政までもが新自由主義の考え方に立ってしまうと経済的な発想になるので、ペイしないならやらないということになってしまう。そういうしたなかで、自治以外に頼れない、自分たち以外に頼れないという状況が生まれ、またそれを地域貢献などの言葉が後押しする、してしまっている状況が生まれているのではないか。そしてそこにいる人たちだけではもはや維持することができない、持続可能性が担保できないから、移住や定住という考え方が出てきて、よそ者たちを当事者にする動きがなお活発化することになるのではないか。でもどの地域でも移住先や定住先に選ばれるわけではないし、誰でも移住・定住できるわけでもない。だからやはりその地域の人たちで、ということになる。話が一周する。

地域は伝統と似ている?地域は再発見され創造される

結局、地域とは何なのか。固有の何か価値のあるものを再発見なり創造なりしてそこでやっていきましょう、と。そのための概念なのではないかなと思うわけです。

いま「再発見」「創造」という言葉を使いました。エリック・ホブズボームという人が伝統という概念について、伝統は純粋に何千年も前からずっとそこにあるというものではなくて、あるときあとから必要とされて作られるのだ、と。

たとえば、地域をよくするためにこういうことがここではあったということにするとこの地域はもっと魅力的になる、だから伝統というのをいま作り出す。これまでまったく光が当たってこなかったようなことでも、いわば使えるということになれば、それはずっとここにある伝統だと再発見され、打ち出されていく。よい/悪いは別にして、地域においてもそういうことが行なわれている可能性があります。

それと、新自由主義という考え方のもとに自己責任を迫られるような、そういう文脈が形成されているとすると、地域はよいものであるというふうに当事者は思っていても、それは結局その当事者ではない人たちにとって都合のよいものになってしまっているおそれがある。

こういうことを言うと、当事者の人たちからすれば自分たちがよいと思ってやっていること、一生懸命やっていること、たのしくやっていることになぜ水を差すようなことを言うのかということになると思います。でも、水を差すというか、ちょっと待てと言うのが、哲学の役割のひとつだと思っているので、実際いまこういうことを言っている。それによって、つまり——スライドには地域を宙吊りにすると書いたのですけれども——地域はよいものであるとか、肯定的なプラスのイメージで捉えられているところに、そうではない側面もあるかもしれないということを示していくことによって、地域というものは本当によいものなのか、他に考えることがあるかもしれないと立ち止まることになるわけですね。この立ち止まるということが結構大事で、そこから地域とは何かと、ぐっと考え直すことが可能になると思うのです。そのためのきっかけを哲学は提供することができるのではないのか。地域を解ではなく問いにすると書いたのはそういう意味です。

これまでは、地域というのは一種の答えであった、そこをどうにかしなければいけないという答えであった、それを、本当にそうかと疑ってみる。地域というのは一体何なのか、と。答えであったり結論であったり決定事項であったりすること、そうしたことを問いに変換することが哲学の役割なのではないかと思います。ただそれは単なる逃げではないかと思わずにはいられない。地域とはこういうもので、その課題解決のためにはこうするべきだということを哲学の側からも言わないといけないのではないか。だから単なる逃げなのかと最後に書き加えているのですが……でも逃げではないような気が、やっぱりします。解決策を示すのは、おそらく哲学以外のところでいっぱいなされているので、そこに待ったをかける、ちょっと待てと言う、本当にそうなのかと首を傾げてみる、そういうところが哲学の役割のひとつだろうと思う。

共同体主義と地域を接近させることの面白さ

ーー橋本先生、ありがとうございました。橋爪先生、何かコメントはございますか。

(橋爪)ひとつ伺っていて面白いと思ったのは、私はそもそも「地域」という言葉を英語に訳すときに、「コミュニティ」という言葉が全く思い浮かばなかったんです。実は事前にこのイベントの打ち合わせをしているときに、「そうか、コミュニティって訳せるんだ」ってちょっと思ったんですよね。確かにそうかもって。結局、なぜそれが思いつかなかったというと、コミュニティは、人間社会というか、人間の共同体や集合性の方に重きを置いたコンセプトだと思っていたからです。地域は「地」「域」という言葉が入っているように、空間的なコンセプトがあるという先入観があって、だからコミュニティっていう言葉が全然思い浮かばなかったんですよね。でも、言われてみると確かにそうだなと思って。しかもそこに共同体主義、コミュニタリアニズムの話がついてくると、さらに納得したところがありました。

前回のイベントで、地域とは、離脱がある種可能であるということ、倫理がある種の離脱を前提にしているというような橋本先生のご説明がありました。その文脈のなかで、離脱ができるということが倫理性を保つ前提になるかもしれないけど、でも離脱の困難さと表裏一体になっているという話もありました。橋本先生のご説明の中でもあったとおり、共同体主義というのは、我々が倫理として振りかざしているものが、基本的にある特定のその共同体の価値観と実は切っても切れないんじゃないか、と主張したものでした。その離脱の難しさと、倫理が共同体と密接に結びついているという共同体主義の主張が、リンクしているように感じたんです。

橋本先生が名前を挙げられたのはマイケル・サンデルでしたけど、共同体主義者の中でもうひとり有名な人、アラスデア・マッキンタイアという人がいます。マッキンタイアは、『美徳なき時代』というタイトルの本で、つぎにようなことを言っています。美徳なき時代においては、我々は地域というか、時間と空間に縛られないで普遍的に妥当する倫理みたいなものを論ずるのだけど、実はそのことによって倫理が意味のわからないものになっちゃっているんだと。要するに、例えば、宗教的な背景とかがあると意味をなすような倫理的言明が、その背景をすっ飛ばして通用させようとすると、非常に複雑な根拠づけをして提示しないと説得力を持たなくなってしまう。仮に複雑な根拠づけをしても、どれぐらい共有して納得されるかというのがよくわからない宙吊り状態みたいなものになってしまうということを言っているんですよね。それで言うと、その共同体主義者は、そういう倫理とか道徳みたいなものが、ある種コミュニティの中で、その人がどういうポジションにいるのか、そういった事柄と非常に密接に結びついていると捉えた思想なんですよ。

ただし、それが個人よりも共同体をある意味で上位に置くようなことにつながったときに、個人に対して圧迫的で抑圧的な方向性で働く可能性というのも当然ありえて、そのあたりでリベラリズムとは対立的な部分が出てくるわけです。リベラリズムは、個人の自由は一番重要な価値として、そこはどうやってもキープしようということがある。だけど、個人の自由を抽象的に普遍的に主張しようとしても地に足がついていないから無理なんじゃないかというのが、共同体主義の主張。それとその地域という問題を接近させておっしゃってくださった点というのが面白い。

地域に価値を置いたときに、そこから倫理的なものをどれぐらい引き出せるかと言ったら微妙ですけど(山梨に特有の倫理とかってあるのかわからない)、少なくともある程度、地域にいることから自分のアイデンティティを引き出すぐらいコミットメントがないと、地域について何かまじめに考えようとか、地域に価値を置こうというふうにはなかなかならないのかなと思うんですよね。

だから、地域を重視することとコミュニタリアン的な発想が、同じなのかそうじゃないのか、と橋本先生はおっしゃっていたんですけれど、確かに通底する部分はあるのかなと。地域に身を置いているというところから自分というものを引き出そうとしてくると、そういう場所にとらわれない自己を見出すのが難しくなるのかもしれません。例えばその地域ですごく自分が抑圧されてるとしても、そこから逃れて自分だけで別の空間に移動しようという発想が取りづらくなるということだと思うんですよね。もしかしたら、地域という概念にはそういう部分があるのかもしれないなと、橋本先生のお話を伺っていて思ってしまいました。

地域について語ることの矛盾

ただ、矛盾を抱えた部分もあって。それは橋本先生がおっしゃっていた「資本主義による軽視」という話にかかわります。資本主義によって軽視されて、ある種地域が周辺化されていく。その中で、地域というものを組み立て直すということも、なんていうかな、新自由主義的な自己責任的な発想というものに委ねられることになる。でも、それが実は大企業とか行政にとってのコストカットと表裏一体で、「地域が自分で頑張る」「自分で頑張れよ」となると、「この地域は自助努力によって頑張るそうなので、公共セクターの支援はいりませんね」って流れになっちゃう。橋本先生がおっしゃっていたのは、こういう流れだと思うんですね。

別にこのことに異論はないんです。ただ、新自由主義も「腐っても自由主義」みたいなところがあって、一応リベラリズムではあるんですよね。リベラリズムっていうのはさっき言ったとおり個をすごく重要視する思想です。だとすると、ネオリベ的な自己責任論というのも、個の自由というものの裏返しみたいなところがないとは言えないと思うんですよ。

ある種の共同体主義的な地域の圧迫性みたいなものを考えたとき、むしろ自由主義的な原理というのが開放的な原理でもあって、橋本先生がおっしゃる倫理とも通ずると思うんです。橋本先生のおっしゃる倫理は、自分で考えるってことと強く結びつくものですよね。でも経済的な次元でこれを組み立て直して考えると、地域を切る論理とも表裏一体になっちゃう。そこで、いや、やっぱりコミュニティとか地域が重要ですよねということになってくると、共同体主義的な発想の方がそれは言いやすい。

リベラリズムだと、地域で自分で頑張ってねというロジックに繋げることもできちゃう。ただ、共同体を重視する考え方だと、地域にある種の内在的な価値を認めていて、「地域を離れたがっているなら離れていけばいいじゃない、自分の自由なんだから」とはしにくい。橋本先生のお話の矛盾を衝こうというわけではないんですが、もしかするとどこに力点を置くかによって価値観が反転するみたいなこと起きているのかもしれないとは感じました。私自身定見があるわけでもないし、どっちの問題を定義するかによって一貫性のない主張をしちゃっているかもしれないので、自戒の念もあるんですけど。

哲学者ハイデガーの原子力をめぐる問題提起

橋本先生が出された「資本主義の軽視」とちょっと繋がる論点があるかと思って、哲学者ハイデガーの議論をすこし紹介させてください。

ハイデガーは20世紀のドイツの哲学者で、1889年生まれ。ちょうど私の100歳上ですね。1976年に亡くなっています。じつはハイデガーはナチスと関係していた人物で、それは哲学史のスキャンダルになっています。ただナチスとよろしくやっていただけの人だったら、もちろん取り上げる価値はそんなにないのですが、大哲学者なんですよね。このことが哲学にとってどういう意味を持つだろうということは、しばしば議論になったりします。ただ、ここで詳しく立ち入ることはできないので、人物紹介はこのくらいにしたいと思います。

このイベントの打ち合わせをした後にたまたま他の仕事である論文を読んでいて、その中で取り上げられていたこともあって、ハイデガーの『放下』というテクストを思い出したんですね。「思い出した」っていうのは、この『放下』は2010年代の前半から中盤ぐらいにかけて、一時期すごく話題になったテクストなんです。

なぜ一時期読まれたかというと、原発、原子力発電所の話が出てくるんですね。3.11の福島原発事故後に、技術について論じているテキストとして、「原子力発電」という技術の本質について考える試みの中でいろんな著述家によって言及されたものなんです。

例えば、原発についてどんな話をしているかご紹介しましょう。

「自然は、他に比類なき一つの巨大なガソリン・スタンドと化し、つまり現代の技術と工業とにエネルギーを供給する力源と化します。〔…〕現代技術のうちに覆蔵されている勢力、そういう勢力は、有るといえる事柄へ関わる人間の関わり合いを、規定をしております。その勢力は地球全体を支配しております。人間は既に、地球を離れて宇宙の中へ突進することを、始めております。併(しか)し、原子力が極めて巨大な力源であり、近い将来あらゆる種類のエネルギーに対する世界の需要を永久に満たし得る程の力源であるということが、知られるに至ったのは、漸(ようや)くここ20年前からのことであります。この新しいエネルギーを直接に調達することはやがて、石炭や石油の産出や森から取って来られる薪とは違って、最早(もはや)一定の国土や一定の大陸に限られなくなるでありましょう。近い将来に地球上のどの箇所にも原子力発電所が建設されうるに至るでありましょう。〔…〕決定的な問は、今や次のような問であります。すなわち、我々は、この考える〈表象する〉ことができない程大きな原子力を、一体如何(いか)なる仕方で制御し、操縦し、かくして、この途方もないエネルギーが突如として――戦争行為に依らなくても――何処かある箇所で檻を破って脱出し、いわば《出奔》し一切を壊滅に陥し入れるという危険に対して、人類を安全にして置くことが出来るか、という問いであります」

マルティン・ハイデッガー『放下』(原書1959, 理想社ハイデッガー選集15 辻村公一訳 1963、19-20頁、ただし旧字と旧仮名遣いを現代的に改めた)

こんなことを書いてるテキストです。現に事故が起きたあとで、原子力というものを考える上で非常に大切なテキストだということでよく検討されたんです。しかもハイデガーは、いわゆる「原子力の平和利用」が謳われ始めてそんなに間もないころに、こういうことを言っている。いわゆる原子爆弾ではなくて、原子力発電として使われることを考えた上で、そのエネルギーが「出奔する」、つまり暴走する可能性に言及していた。だから、あの事故が技術というものが持つ本性とどれぐらい本質的に関わり合ってるんだろうかということを考える上で皆このテキストを参照しました。

タイトルの種明かしでもあるんですけど、「放下」という態度は、対象というものに対して、肯定的な態度と否定的な態度を同時に取る、賛同しながら拒否するということだとハイデガーは言っています。技術の発展は人間のコントロールを超えた運動だとハイデガーは捉えていて、それはそれとして、そういう動きが起きているということを受け入れるしかない。だけど、その動きをそのまま受け入れていいのかというと、その技術の本質について考えたうえで、拒絶の可能性みたいなものを留保しておくことが必要だというんですね。こういうと、どっちつかずの態度というか、その状況その場に任せる態度という捉え方もできなくはないんですが。

ともあれ、問題は原子力や技術であると。私も当時そういう観点で読んでいいました。ところが、改めて読んでみると『放下』は「原子時代の人間に果たしてなお何等かの土着性が授けられるであろうか」というのがテーマですと、本の一番最初に言ってるんですよね。ここは私はずっと読み飛ばしていたというか、あんまり気にしてこなかったところでした。それが今回、妙に気になったんです。

原子力の時代を問うテキストの主題は実は「土着性」だった

『放下』を技術に対する関わり方のテクストという形で私も読んでいたんですけど、たまたま打ち合わせが終わった後に見直すと、土着性ということが言われている。「土着性」はドイツ語だと「ボーデンシュテンディヒカイト」です。「ボーデン」っていうのは土台、土なんです。大地。日本は「土着」で「着」だから「つく」となっているんですが、「シュテンディッヒ」というのは「立っている」ということなんです。だから「ボーデンシュテンディヒカイト」は「地に足がついている」「大地に立っている」ことをなんですよね。それが主題だった。

なぜハイデガーは、原子力の時代に土着性が失われると考えたのか

なんでこれがこの本の主題なんだろうって思ったんです。わかんないなって。なぜ原発が土着性を脅かすんだ? 原子力が土着性を脅かすって、確かに原子力はいろんなものを脅かすと我々は思うわけですけど、「土着性」を脅かしているのか? それでちょっと考えてみたことが、実はさっき橋本先生が資本主義っていうものの関わりの中でおっしゃったことと通じていたんです。

結構危なかっしい話でもあって、それは事前に注意しておきます。「土着性=ボーデンシュテンディヒカイト」というわけですが、ハイデガーとつながりのあったナチは「血と土(ブルート・ウント・ボーデン)」をキーワードにしていました。ドイツ民族としての血と大地というものが共同体の紐帯になるという、人種主義的イデオロギーです。そのイデオロギーが一応去った後とはいえ、ナチとつながっていた哲学者が「土着性」とか言っているのはけっこう不穏です。

それは一応注意しておくとして、じゃあ土着性はなんで脅かされるのか、とちょっと考えてみたい。私も別にハイデガーの専門家ではないですし、このテキストを専門的に研究したわけでもないので、あまり自信がない部分もあるんですけども、ちょっと私の解釈を述べておきます。

ハイデガーはじつは原発のことをあんまりよくわかっていなかったところがあるんじゃないか。でも、だからこそ面白いことを言っている。さっき引用した箇所で、地球上のいたるところに原発を立てて、そこからエネルギーを汲み取れる、みたいなことを言っている。多分ハイデガーは、原発というのが、一定の空間があればそこからエネルギーを無限に引き出せるようなものだと思い込んでいる節があるのではないでしょうか。原発がどうやって電力を調達するかという仕組みは、おそらく当時の哲学者でもそんなに詳しくは知らなかったと思うんですよ。原子力発電所って必ず大量に水が得られる地域に置いておかないといけないんですけど、それは原子力から取り出せるのはさしあたり熱で、その熱をどうエネルギー転換するかというと、熱でタービンを回すことによってやるからです。要するに原子力でお湯を沸かして、その水蒸気でタービンを回すと熱エネルギーを運動エネルギーに変換できるという、そういう意味では結構原始的な仕方で電力を取り出しているんですよね。だから、必ず大量に水が得られるところに置かないといけないし、そこに汚染された廃棄水を出し続けます。ヨーロッパやアメリカだと大きな川の川沿いに置かれることが多いらしいんですけど、日本は巨大で流れが緩やかな川がないので、海沿いにたくさん置かれているわけです。……ちょっと話がそれてしまいました。

ともあれ、ハイデガーはおそらくそんなふうに思っていなくて、原発はどこにでも置けて、しかもそこからエネルギーが無限に取り出せるようなものになると思っている。土地の特性とかそういったものとは無関係に、均等にあらゆる場所にエネルギー源が置ける。すると、どこでもエネルギーを取り出せて、そこにエネルギーというものを活用する人間の共同体も置ける、と。そうなれば当然、その土地土地の特有さみたいなものはどんどん無化されていく方向になりますよね。

ハイデガーの特徴でもあり問題点でもあるんでしょうが、彼はおそらく郷土心が強くて、自分の生まれ育った土地に愛着が非常に強い人なんです。だからその原子力とか原子時代というのはその土着性を失わせるというようなことを考えたんじゃないでしょうか。どこにでも置けるようなエネルギーによって、土地というものが非常に均質化されてしまうというイメージがあったんじゃないかなと思うんですね。

資本主義は「土着性」土地の特殊性を切り崩す

それがなんで橋本先生のおっしゃった「資本主義による軽視」という話に繋がるかということなんですけど、要するに、資本主義は全てを資本として捉えるわけです。資本は要するにカネですよね。アバウトな言い方ですけど、カネはローカルな特殊性というものを反映しないものだと思うんですよ。カネはより儲かるところに集中して、更なる投資によってそれを回収しようとするっていうような、そういう運動性があると。そうすると、おそらくお金儲けに価値の中心を置くと、よりお金が集まってるところには人が集まり、さらに金が増幅する。お金がなくなってるところからはより人が抜けていって、さらにお金も抜けていく。資本がそもそもこういう動きを持っていると思うんです。

それが、ハイデガーが提示する「土着性」が喪失されるメカニズムと通い合うところがあると思います。カネにしてもエネルギーにしても、取り出せれば取り出せるほど、「この」土地の特殊性みたいなのがなくなっていく、均質化するという動きがあるっていうことがあると思います。

橋本先生が「資本主義が地域に目を向けない限り、地域を取り巻く問題は生じる」というようなことをおっしゃってましたが、おそらく資本主義には本質的に地域というものに目を向けづらい傾向性があるんじゃないかなという気がしていて、その部分がこのハイデガーのテキストから今回読み取ったものと重なるかなというようなことを考えました。

地域を大切だと思っている人をないがしろにしたくない

ーー橋本先生、コメントはございますか。

(橋本)原発の話の解釈は、生まれ育ったところのことも思い出しながら、なるほどな、たしかに接点があるなと思って聞いていました。

新自由主義について、個を尊重しようとするのであれば、新自由主義が共同体とか地域などの縛りから個人を解放するのではないかということをおっしゃっていて、なるほどそういうふうに受け取ることも可能だと思って、ではなぜ自分は新自由主義の問題点を指摘しようとしたのだろう、なぜあのようなことを言ったのだろうと考えていました。

私自身は個というものを大切にしたい、尊重したいと思っていて、それはリベラリズムとも関係します。リベラリズムの言う“個の尊重”というものの見方には2つのことが含まれています。ひとつは個人のレベル、つまり自分の自由が大切だと、自分で個人の立場から訴えるときの個の大切さというもの。もうひとつは、全体を見渡す、あるいは他者を眼差すレベル。たとえば政策など、社会などの広い範囲を見渡す視線があって、私たちはそれに捉えられる、あるいはそういう視線で他者を捉える立場に自ら立つときも出てくるかもしれない。前者はわかりやすいと思います。個人にとって選択が大切、自由が大事、自己決定が重要ということになる。後者、全体の視線から個人や自由を捉えるとはどういうことか。それは、あらゆる個人、すべての個人をないがしろにしないということになると思います。あらゆる個人が自由な選択をし、自ら納得する生き方をできるようにする、そのために支援する、そういう価値の置き方がある。そしてこれは地域を大切にしていようが、その地域から抜け出したいと思っていようが、どちらも個人としては尊重されなければいけない、どちらも尊重したいということです。

新自由主義は「自由」を冠してはいるけれども、こういう発想にはならない。個人を選ぶからです。すべての個人の自由を保障しようとしない、尊重しようとしない。新自由主義が尊重するのは経済的に強い個人です。そうでない個人の選択の幅が狭まること、自分の生き方ができなくなることには頓着しない。この点で私は新自由主義を支持しない。

私が最後、地域を擁護するようなことを言ったのは、地域を大切だと思っている人のこともないがしろにしたくないという思いがあるからです。前回の私の話では、地域からの離脱を希望する人を何とか尊重したいという主張が強めに出ました。それは今回と矛盾するようではあるのだけれども、しかし前回も今回も個人を尊重したい、その尊厳を守りたいという点は変わらない、ということの自覚を橋爪先生のお話をうかがいながらだから深めたところです。どっちつかずのように聞こえるかもしれませんが、個を大切にしたいというその点についてはどちらにも共通しているように思います。そのことに気づかされた橋爪先生のご指摘でした。

地域は矛盾を抱えずには考察できない

ーー時間になりました。最後に先生方からひとことずつ、3回のイベントの感想をいただけますか。

(橋爪)もう少し手前で終わるかなって思ったんですけど、でも一応、地域ということについて語り出すところまでは行けたかなと思います。橋本先生の出されたスライドはいろんな論点が散りばめられていて、もう少し整えてすっきりさせれば論文1本分とか書けそうだな、っていう広がりを持っていると思いました。ぜひ考えていきたいテーマなんですが、これまでの議論で「ようやく緒についた」といった感じですね。最終回になってそんなこと言ってるんですけど。

もともと矛盾含みの企画だったんです。哲学は、橋本先生が言ってくださったとおり、普遍的なものだと思う。そういうローカリティ(局所性)にとらわれないものなんだけど、でもローカリティ(地域)について考察するという形になっている。しかも大学教員は特定の土地に縛られないタイプの職種なので、大学教員で哲学研究者でもある我々が語るっていうのは、いかにも矛盾に満ちているんです。だから最初は私はかなり遠慮がちに話していたつもりだったんだけど、だんだんそういう遠慮がなくなってきて、ちょっと自制しないと、と思い始めたころでした。でもこういう矛盾を抱えずには考察できないテーマなのかなというふうにも同時に思うんですが。

(橋本)もう少し先に行けるのかなという気がしていますね。消化不良というか。聞いてくださっている方もそういう感触をお持ちだと思いますし、何より自分自身がまだ十分に消化できていません。まだ到達していない感じがします。自分の力不足を感じますね。忸怩たる思いです。3月1日までに、もうちょっと、あと2ミリとか3ミリぐらいかもしれませんが、もう少し考えを進めたい、深めたいというふうに思います。ありがとうございました。

今回の取り組みには、自分で設定した主題でというよりも、いただいたお題で考えるという側面があったわけです。その、言ってみれば受動性のなかで気づくところがあり、自分の研究テーマとの接点が見出されることもあり、たのしくおもしろく取り組めたのですけれども、まだもうちょっと行けるような感覚が残ります。完全に消化できた、やりきったという感触を得るよりはよいのかもしれません。

地域という言葉の範囲はどこまでか

ーー会場からご質問はありますか。

(参加者)とても面白かったです。ありがとうございます。一つ先生方に投げかけてみたいなと思ったのが、地域っていう言葉は多義性と多重性があるなんて地域社会学のテキストにも書かれて、地域って、そもそもちょっと難しい、つかみどころのない概念です、みたいな話は常にされるものなんですけれども、地域ということを考えるときに、必ず僕だったら最初に思い浮かぶのは、地域のどの範囲までを地域として区切るかっていうことなんですね。例えば山梨県立大学は、日本の、山梨県の、甲府市の、飯田というところにありますけど、飯田というところを地域と見るのか、アジアという地域を見るのかで、地域という言葉は、文脈によって、地域研究という言葉がアジア地域研究というふうに言われたりする場面もありますし、何となく山梨の中、山梨というところのくくりがすごく強くて、地域というと、なんか山梨を想像しながら喋ったりすることがあったりするんですね。そういう地域という言葉がどういう範囲で語られるのかということに一番興味が行くんですけれども、そういう地域という言葉の広さということに、お2人とも今回あまり言及されなかったので、そういう発想に哲学者はなりにくいのはなぜなんだろうみたいなことをちょっと思いました。地域という言葉を考えるときには思い浮かぶトピックなんですけれども、その辺を先生方はどんなふうに捉えられますかということ聞いてみたいなと思いました。多分、地域の範囲が変わると性格がかなり変わってくるっていうところある。共同性みたいなものは小さい地域の中で出てくるし、というような感じもするので、そのあたりのところとの関係性をどんなふうに捉えられたか、聞いてみたい。

ーー橋本先生、いかがですか。

(橋本)われわれだけの打ち合わせのときも、地域研究、エリアスタディーズというのはあるという指摘は出てきました。地域の境界線が移動するということは言えると思います。地域という言葉を使うときには、アジアのような大きなところまで行くこともあれば、飯田のように小さな範囲を指すこともある。地域というのは、空間の範囲、地理的な範囲というものを自在に変えられる概念だと捉え、それ以上には考えていなかったです。

ご指摘を受けて、いつの間にかわれわれは——というか、私は——何となく地域というものをこういうものというような設定を施していたかもしれないと省みてもいます。実名でやりとりできる関係性で構築された空間、顔をさらさざるをえない空間、のような感じでしょうか。そうした心象風景のなかで語っていたのかもしれない。でもその説明をしないで、いきなり話し始めたところがあります。人口の減少とか、資本主義から見放されているとか、そういう話をしているときには、おそらく、顔の見える関係性、個が確認できる間柄——しかしその個は集団性によって強めの制約を受けている——、そうしたことが成り立っているような空間を何となくイメージしていたのかもしれません。

ーー橋爪先生、いかがですか。

(橋爪)例えば私が地域に生きるというときに、ある意味で多分アジアに生きるというのは、概念として表現としては言えるし、現にアジアの中で地域生きているんですけど、実感を持ってアジアに生きることはできないんじゃないかなと。つまり、アジアという地域に生きていますという、そこに何か実質が伴わないと思う。多分、甲府市飯田というんだったら伴うし、甲府でもある程度伴うし、山梨に生きるということなんかリアリティがあるんですけど。うまく言語化できないんですけど、何かやっぱりずっと東京で生活するというのと山梨で生活することの違いみたいのがあって、確かにそういう違いって全然議論にならなかったというのは、これ多分、哲学者の悪い癖が出ているんだろうなというのは一つは思うんですけど、他面で、伺っていて思ったのは、「そこが生きられる場だ」という「サイズ感」っていうのがさしあたりあるのかなという気はしました。

だから、生活というものが生み出す、生きられる空間というものがあると思うので、地域という単位もそういうものと密接にひっついているのかな、と思います。

地域という言葉の意味はどこまで明確化できるのか

ーーほかにご質問はありますか。

(参加者)面白い話、ありがとうございました。私の分野、セマンティックWEBで考えると、概念と表記は別のものと考えます。なぜ、ある概念に対して、今、日本とか韓国は地域っていうラベルを表記を使ってて、それが例えばアメリカでローカルだったりリージョンだったりということと、何か違いがあった場合は、概念自体が別物だと考える。日本人が地域という言葉で考えている概念は、どういうプロパティで定義されているのか。お二方は地域という単語を定義する特徴というか、プロパティが何で、どういう値だったら私達が共有する考えの地域っていう単語になるのか。

ーー橋爪先生、いかがですか

(橋爪)「概念」と「表記」とは別物、そういうふうに考えられないかということだったんですけれども、「地域」というのは人工言語じゃなくて自然言語で使われている概念なので、結構それって難しいんじゃないかなと思うんですよ。

おっしゃっている「概念」と「表記」ってのは、私はこういうふうに理解しました(以下は、内田樹さんが『寝ながら学べる構造主義』〔文春新書、2002年〕という本で出している例に則っています)。例えば犬と言ったときに、四つ足があって、耳がとんがっていて、耳が生えていて、ワンという動物を我々表象するわけですけど、これは日本語では「イヌ」って言うけれども、英語だったら「ドッグ」って言うし、ドイツ語だったら「フント」っていうし、フランスは「シアン」と呼ぶ。だけどその「イヌ」と「ドッグ」と「フント」と「シアン」という系列は全て同じ存在、というか同じ対象を指しているということになるんですね。

ただしその場合には、日本語を話す人にとってはドイツ語の呼び名では通じないし、他の言語もそれぞれそうです。そうすると、四つ脚の耳がとんがった動物っていうのを、よりそのものとして的確にさせる何か概念っていうのがあれば、それぞれの概念の揺らぎに左右されずに済むというようなことかなと思うんですよね。

ただ、やっぱり自然言語だと、その辺の境目はかなり曖昧な概念というのは結構あって、例えば「サカナ」という概念だと、例えばタコとかクラゲとか含まないと思うんですけど、英語の「フィッシュ」って、タコは「デビルフィッシュ」って言われたり、あとクラゲは「ジェリーフィッシュ」って呼ばれたりして、「フィッシュ」っていう指示対象にも含まれてしまったりする。そういう外延の違いみたいなものがあると思うんですよね。

なので、地域というのは、やはり何か日本語の広がりの中で、他の概念との差異の中で特有の位置というの持ってて、それが何て言うか、単純な翻訳を許さない、そういうニュアンスを抱えてしまっているというのが実態なのかなと。だから一対一対応的に表記と区別される概念を切り出すということに困難がある。

我々が思考したり哲学するうえで、自然言語と切り離された明確な定義や概念を作るということもあるんですけど、その一方で、やっぱり我々は普段使っている言葉で思考をしているので、むしろ地域ということを考えるうえでは、我々がその言葉でどういう現実をどういうふうに分節化してるかということを明示化するという作業の方が、地域という現象を把握するうえでも本質的なんじゃないかな。私が思ったのは、今のところこんな内容でした。

ーー橋本先生、いかがですか。

(橋本)シニフィアンとシニフィエの話でもあると受け止めました。シニフィアンというのは記号ですよね、言葉というか、表象。シニフィエというのは、その意味内容のことを指します。ご発言の意図とはずれるかもしれませんが、そのように受け取りました。

浮遊するシニフィアン」という言い方をしてみます。本当はよくわからないものであるにもかかわらず何となくわかった気にさせてくれて何かよいことを言っている気にもさせてくれて便利でもあるから流通している使用されている、そういう言葉のことを「浮遊するシニフィアン」と言う。それはいかようにも——と言うとおおげさかもしれませんが——意味づけ、あるいは印象の操作が可能だから、都合よく使われてしまう、その意味で恣意的である。ゆえに浮遊するシニフィアンは批判的に言及されることも多いです。「地域」も一種の浮遊するシニフィアンかもしれません。アジアでも甲府でもいかようにも意味づけが可能である、都合よく使うことができる、そういう言葉であるかもしれず、だからこそ注意深く用いる必要がある。地域という言葉で私たちは一体何を語っているのか、地域を使わずに語ろうとするとどのような言葉がありうるか、最初の問題提起に戻ってきてしまいましたが、やはりそうしたことは考える必要があると思います。

まとめ・謝辞

以上、2024年1月26日に山梨県立大学飯田キャンパスC101教室で開催されたイベントの内容を一部、加筆・修正し、記録しました。また、3月1日には会場を街なかに移して、(株)DEPOTの斉藤奈央さんの企画と司会で、トークイベントを開催しました。

一連のイベントは、山梨県立大学地域研究交流センターの地域貢献実践事業として開催されました。関係者の方々のご支援に感謝の意を表します。

とりわけ夕方から夜にかけての開催だったにもかかわらず、3回のイベントに延べ80人を超える方が足を運んでくださいました。みなさまがいてくださったから、このような言葉が生まれてきたのだと思っています。改めて御礼を申し上げます。

最後に毎回、素敵なロゴとポスターをつくってくれた山梨県立大学国際政策学部の折井穂乃花さんにも感謝の意を表します。