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介護のミライを考えてみた(1/2)

予定していた内容を書き終える見通しがたってきました。
昔から継続するというのが苦手なため、溜まっていく記事を見るのは嬉しいです。読んでくださる方々に感謝です。

さて、本章では介護のミライと題しまして、介護という大きな産業がどのように発展していくのか2回に分けて考えてみたいと思います。
1回目となる本稿では1章と2章で書いてきた内容を踏まえながら介護の現状を整理していきます。

私は1章で”介護は職員にとっても利用者にとっても楽しいことが大切である”という内容について触れてきました。
利用者にとって楽しいというのは、サービスの受け手であるのでわかる気がします。
しかしサービスを提供する側の職員にとっても楽しいことが重要であるのはなんででしょうか。
これには主に2つの理由があります。

1つはコミュニケーションの健全性を保つためです。人間関係において、片方が楽しく思っていないのに、もう片方が楽しいと感じるのはとても違和感があります。また、こうした事態が起きることは現場経験を通してあまりないように感じますし、不自然な笑顔は相手に必ず伝わってしまいます。「あなた」が楽しい様子は「わたし」を楽しくさせるし、それは逆も言えることなのだと思います。

2つめは人手不足解消のためです。成長産業であると言われながら、介護の離職率は他業種よりも高く、給与も高くありません。人手不足を改善するてっとり早い方法は待遇を改善することですが、急激には難しいのも現状です。現場レベルでこれを変えていくためには、働く場所に魅力を出していくことだと思います。働いていて楽しいという感覚は、何にも勝るものではないでしょうか。

介護という生活支援の現場で大切なことは我々が日常生活で大切にしていることと、そう変わりはありません。
日々を楽しく過ごすという感覚を少しくらい我儘に介護士各々が追求していってよいのだと思います。

・・・とはいえ、楽しいというだけでは、介護の今後は明るくありません。
介護士は自分たちの専門性を明らかにし、それを価値に変換していかなくてはなりません。
なぜなら、介護が誰でもできる仕事である限り、そこに見合った待遇がつくことはないからです。
そこで第2章で介護の専門性について考えてみました。

介護の専門性とは何か、私は”人の良質な関係性を築くこと”と定義しました。なぜなら、介護は健康(well-being)をもたらす仕事であるからです。

介護士は原則、人を身体的に癒すこと(≒医療行為)ができませんが、生活支援を通して人を精神的にもしくは社会的に癒すことができます。
careのもととなった古英語caruの原義は「談話、呼び声、叫び」だそうです。
被介護者の話や声に耳を傾け、周囲や社会との関係性を紡ぎ直していくこと、これが介護士(care-giver)なのだと思います。

では、具体的にこの関係性をどのように紡いでいくのか。
これにはまだ私自身の中でも明確な解決方法を見出すに至っておりません。
しかしながら、ここには自発的な意思決定に基づくコミュニティへの参加が欠かせないように思います。
利用者さんをどのようにしてコミュニティに巻き込んでいくべきか、この答えは研究よりも現場から見えてくるような気がしています。

こうしてこれまでの投稿を振り返ってみると、今(おそらく今後も)介護士に求められるスキルは、楽しい現場作りをするにせよ、人の関係性を紡ぐにせよ、コミュニケーション能力だということがわかります。
しかし、介護業界の現状として、介護に必要なスキルや専門性は、その確からしさはともあれ、これまで言語化されてこなかったと思います。

以前、ユマニチュードというケア業務に携わる人々に向けた患者さんへのコミュニケーション技法が話題となりました。
この技法は正直特に難しいことを言っているわけではありません。人の目をみるとか、声かけをしながら触れ合うとか、誰もが「そりゃそうだ」となりそうなことが説明されています。そのため、介護士の間では「こんなのとっくにやっているよ」という声もたくさんあがりました。

しかし、産業の発展を考えるにあたって、こうした試みには一定の価値があるように思います。
それがすでに実行されていても言語化されていなければ、現場で発見された知は蓄積されていかず、さらなる発展へと結びついていきません。
現場業務に没頭していると、業務を俯瞰して考えることがつい難しくなってしまいます。

たまには少し立ち止まり、自分たちが目指すべき介護とは何か、そのために達成するべきことは何か、そんなことを真剣に議論できる場がもっと盛んに生まれたらよいなと最近思います。


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