見出し画像

介護のミライを考えてみた(2/2)

ひとまず最後の記事です。
前回の記事ではこれまでの投稿内容を踏まえながら介護の現状を整理しました。
今回は介護のミライについて考えてみたいと思います。

今後の国の方針から介護がどのように変わっていくのか、まずはそこから考えます。

現在、厚生労働省では科学的介護が推進されています。
(科学的介護URL:https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-rouken_485753.html)
これは身体活動量やリハビリ回数、栄養および水分摂取量を解析し、現状の支援体制をよい介護に向けて最適化しようという試みです。
私は必要性を感じつつもこの試みを少し斜めに構えて見ています。

以前より医療分野でもビックデータ解析から診療の最適化を厚生労働省は訴えてきましたが、必要なデータ収集がままならず、長年、革新的な進展には至っておりません。
個人的には、介護でも同じようなことが起きる気がしています。

ただ、ここで考えたいのはもっと根本的なことで、よい介護とはそもそも何かという点です。
医者のもとへ来る患者は身体や精神に異変を抱え、それを治療するために来院します。
治療の手段に向けた選択肢は数多くありますが、目的は比較的明確です。
そのため、(一概には言えませんが)統計解析による診療の最適化は相性が良いように思います。

では、介護の場合はどうでしょう。
確かに科学的な検証結果で導き出された最適解から介護度が3から1になることは良いことのように思われます。
本人の生活の選択肢は広がり、世話をする家族や周囲の負担は減るでしょう。
しかし、忘れてはならないのは介護は生活支援であるということです。

生活支援を行う介護の目的は広義の意味での健康、つまりwell-beingを達成することです。
そのため、普遍性を持たない目的を一般化し、生きがいを著しく損ねてしまわないように気をつけなくてはなりません。例えば、寿命を削ってでもタバコやお酒をやめたくない人は、周囲に看過できない悪影響を及ぼさない限りにおいて、やめる必要があまりないようにも思います。

目的が明瞭で一定程度の普遍性を持っていれば、その目的を達成するための最適解を科学は示してくれるでしょう。一方で、目的を一般化できないが為に、データ解析から理想の生活支援を達成することは難しいかもしれません。

とはいえ、介護の未来において、業務内容は科学され、現場にテクノロジーが導入されることに間違いはないでしょう。
そこで、AIや機械学習といったビッグワードが飛び交う中で、こうした最新技術はその能力ありきではなく、現場の本質を見定めながら活用していかなくてはなりません。

前回の記事でお伝えしたように、ケアの本義は聞くということに由来します。
地道に被介護者に寄り添って声を聞くことは被介護者のwell-beingを把握することにつながるはずです。
そのため、介護士を含めた周囲の人間が被介護者の声(心情)をテクノロジーによって簡便に拾えるようになるとよいなと思います。声は直接被介護者から拾うことに限りません。(以前、私は上手くいきませんでしたが)被介護者の生活の喜びを文章記録などから可視化しても面白いと思います。

では、こうしたwell-being志向のテクノロジーの活用が実現すると何がよいのでしょう。
もちろん、介護の目的である被介護者のwell-beingの実現に繋がるわけですが、他にも介護の質の担保ができるようになるという利点があります。これまでの介護業務は属人的であり、知的産業としての側面は重視されてきませんでした。
コミュニケーションも含めた介護のノウハウが、テクノロジーを通して可視化されたとき、はじめて人に伝達可能な知識となります。これができれば、介護はkaigoとなり、世界に対してそのノウハウを広めることができるかもしれません。

「おもてなし」を売りにした介護が悪いとは思いませんが、国々で文化的背景の異なる中、体系的と言い難い物を輸出産業とすることはできないでしょう。日常生活の質を理論的に向上させることができたとき、初めて世界に広められる介護になると思います。

さて、これまで己の介護論を書き連ねてきましたがいかがでしたでしょうか。
なかなか介護や福祉業界には光が差さないご時世ではありますが、少しでも介護への希望やおもしろさを感じてもらえましたら幸いです。

また、どこかのタイミングで、こちらのnoteも更新していこうと思います。noteの記事などにお気軽にコメントなどもいただけたら嬉しいです。

ここまで、長文を読んでくださりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?