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日本的(縄文)世界観とメタバース

縄文を語るなら、まず黒耀石から

今日は縄文のさらに以前、旧石器時代の日本人の歩みを学ぶべく、長和町の黒耀石体験ミュージアムへ。

やはり聞くのと実際に発掘現場に行くのは全然違いますね。

縄文を語る前に、まず黒耀石に触れなければ始まらないなと思いました。

機会があれば是非、黒耀石体験ミュージアム、そして昨年オープンした、縄文時代の黒耀石鉱山の地下の様子を世界で初めて最新技術で再現した「星くそ館」を見てほしいです。

色々感じることはありましたが、やはり最も感銘を受けたのは、3万年前から、当時の生活に無くてはならない、今で言えば石油に匹敵するような黒耀石を、多大な労力を投じて採掘したにもかかわらず、それを独占したり奪い合ったり争ったりすることなく、物々交換さえすることなく、平和に分かち合っていたこと。

なぜ旧石器時代から縄文時代の約3万年間の長きに渡って、独占したり奪い合ったり争ったりするよりも、分かち合う方がお互いにとって幸せであるという生き方を続けることができたのか?

独占したり奪い合ったり争ったりするよりも、分かち合う方がお互いにとって幸せである、ということは小学生でも理解できるにも拘らず、人類史上、世界中のどの国・地域でも長期に渡って実現できなかったのに、なぜ日本では3万年に渡って実現できたのか?

黒耀石が奪い合う必要もないほど潤沢に存在していたから?とも思いましたが、実際には古代の人たちは黒耀石を求めて長い距離を探し回り、数メートルにも渡って深く掘り進めていて、かなりの重労働だったことが分かります。

また、たとえばマヤ文明のユカタン半島など世界の他の地域でも黒曜石は採れましたが、王家など特定の支配階級が独占していて、一般市民は採掘に駆り出されても使用することはできなかったようです。

僕は以前、縄文時代が長期に渡って平和だったのは、農耕が発達しておらず貨幣も存在せず、富を蓄積できなかったからではないかと思っていました。

貨幣の登場によって富を蓄積できるようになって、富めるものは益々富み、貧富の差が広がっていったのではないかと。

でも黒耀石は、当時は石油以上に大切な資源であり、蓄積も可能で、権力者が独占し蓄積することもできたはずなのに、なぜ平等に分かち合うことができたのか?

それが解明されれば、世界平和を実現できるヒントになるのではないか?

これはあくまで推測ですが、旧石器から縄文にかけての日本人は、自分と他者を一体として捉えていたのではないか、と思います。

だから当然のように分かち合ったし、誰かを犠牲にして自分だけが利益を独占しようという発想が無かったのではないか?

そして現代の日本人にも、その感覚が鈍ったとはいえまだ残っているのではないか?

西洋的世界観と日本的(縄文)世界観

ということで、西洋的な世界観と、縄文の世界観の違いを、図示してみました。(あくまで私見)

西洋的な世界観は、唯一絶対神がいて、人は生まれながらに原罪を背負っており、神に赦されることで生きることができています。

自然と分断され、人は自然を征服する力を神に与えられていて、人類の利益のために自然から収奪して良いとされています。

他者とも分断され、意識的につながろうとしなければつながれません。(言語も、「私は」と主語を明確にしなければ文章が成り立たない)

自分ではない何者かになることが幸せであり、目標達成のために計画を立てて、課題を解決することで幸せになろうとします。

これに対して縄文の世界観は、八百万神がそこらじゅうにいて、なんなら自分の中にも他者の中にもいます。

人間は自然の一部であり、自然に生かされていて、自然を壊せば自分にも返ってくるので、自然と共生します

他者も自然の一部であり、境界線が曖昧で、なんとなく理解し合えたりします。(日本語は、主語を明確にしなくても文章が成り立ちます)

幸せは自分の中にあり、計画を立てて課題を解決するというよりも、導かれるように人生が展開します。

西洋と日本とどちらが良い悪いではなく、西洋的な世界観が近代の経済成長を牽引してきたことも事実ですが、もう限界に来ていますね。

だからと言って縄文に100%回帰するのではなく、両方を統合して止揚していくことが大切だと思います。

比較表

この比較表を見ると、西洋よりも日本が優れているような感じに見えるかもしれませんが、西洋は自分を他人や自然や神から切り離して冷徹な分析対象としたからこそ科学が発展した、という面があるのは事実です。

それに、他者や自然や神との境界線が曖昧で渾然一体としているというのも、良いことばかりではなく、他人との境界線を不必要に超えて侵害してしまう、他人の目を気にし過ぎてしまう、科学的・論理的な分析を軽視してしまう、などなど様々な弊害もあります。

どちらが良い悪いではなく、ただ西洋的な世界観は限界に来ているから、統合し止揚していくフェーズだよねということです。

書いていて、2009年に上梓した『宇宙とつながる働き方』に掲載した、「つながりを分断するビジネスとつながりを取り戻すビジネスの比較表」に似てるなーと思いました。

あの頃はスピリチュアルを前面に出してましたが、最近はスピリチュアル=現実逃避みたいになっててあまり言わないようにしていましたが、、僕が伝えていたのは日本的(縄文)世界観なんだなと妙に腹落ちしています。

縄文とメタバース

そしてこの日本的(縄文)世界観は、メタバースと相性が良いのではないか、と感じています。

旧石器や縄文の世界観は、自分と他者、自分と自然、自分と神が分断しておらず一体となっていることが特徴です。(私見)

一体になっているということは、物理的な制約を超越している、時空間を超えている、ということ。

実際、縄文の土器とか黒曜石とかを見ると、時空間を超越しているのではと感じるものが多い。

おそらく日本人はもともとその感覚を持っていて、それが戦後、または明治維新後に忘れてしまった、忘れさせられてしまったのだと思います。

で、言うまでもなく、メタバースの世界は時空間を超越します。

物理的な制約が無いので、たとえば移動のために莫大な資源を消費することも無いし、幸せを感じるためのコストも著しく低いので(マイニングによる電力消費量の問題はあるにせよ)、実はすごくサステイナブルです。

現実世界で幸せじゃない人がメタバースで幸せになっても、そんなの現実逃避じゃないか、本当に幸せなのか?という疑問は僕も抱いていました。

でも現実世界で幸せになろうとして多くの人が争い、無理をして、我慢して、幸せから遠ざかり、幸せになれなかった人たちが他人や社会を恨み、傷つけ合い、場合によっては犯罪を犯してしまうことを考えると、物理的な制約なく、資源の制約もなく、誰もが幸せになれるメタバースの世界は、実はSDGsを軽く実現してしまうポテンシャルを秘めているのではないか。

たとえば病気や怪我で身体に障害がある人が、メタバースで自由に動き回ることで、QOLが増すだけでなく、脳が錯覚して障害が改善するという事例もあります。

そう考えると、様々な理由で現実世界で生きづらさを感じている多くの人たちにとって、メタバースは救いになり得る。

もちろんメタバースの世界を悪用する人たちもいるけど、それはどんな世界でも起こり得ることなので、今考えるべきは、縄文の日本的世界観を活かして、誰もが幸せになれる方法を模索することではないか。

どのような世界観に立脚してメタバースを捉えていけばいいのか、現実世界でしか得られない幸せはどこまでで、資源の制約ゆえに現実世界で奪い合うよりもメタバースで実現した方が良い幸せはどこまでか、などなど考えるべき課題は多々ありますね。

今はまだ、メタバースなんて一部のオタクの間だけで一般には普及しないという声も多いですが、過去を振り返れば、パソコンなんて世界で数台しかニーズが無いとか、携帯電話なんてあんな大きくてゴツいものは誰も持ち歩かないとか言ってたのに、今や電車の中の全員が下を向いてスマホ画面を覗き込んでいても、誰も異常とは思わない。(冷静に考えるとかなり異常だと思うけど)

つまり好むと好まざるとに拘らず、多くの人がメタバースの中で生きるようになっても不思議ではない、というかその流れはほぼ不可避です。

であれば、現実世界とメタバースとをどのように生きるのが幸せなのか、ちゃんと哲学しておく必要があるのではないか、と思っています。


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