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Zoom時代の一人称ものづくりとプロトタイプ力

covid19でリモートワークが定着して早1ヶ月。

部屋の中、同じ場所で生活する時間が長くなると、"生活"という概念を否応なく意識される。そして料理しなかった人が料理するようになり、そこから料理に目覚める、生活の中から楽しさを見出すみたいなことが起こっている。

それをもっとメタ的に意識して生活してみると、少し窓を開けるとなんだか集中できるとか、Alexaから音楽を書けてもらう場所は左斜め後ろがちょうどいいみたいな一人称的な気持ちよさを追求できる。

さらにこれをメタ的に捉えていくとするなら、そこから得られた気づきをもとに実際にものを作っていくことだと思う。先日デザインプロセスの中で、フィールドワークやインタビューがしづらくなるという話をデザイナーとする機会があったが、Zoom時代に置いては逆に一人称的なデザインプロセスを経て、ものを作るチャンスに溢れている。

慶應義塾大学の人工知能研究者、諏訪正樹さんは記事の中で

状況には、人生のなかでただ一度だけ遭遇する、つまり、初遭遇である場合が多々あります。また、ひとは、その状況で生じているすべてのモノゴトを(神様のような視点で、つまり客観的な立ち位置から)見る/感知することはできません。ひとが得ることができるのは、自分の立ち位置から見た一人称視点での世界です。神様視点が全体視野であるのに対し、一人称視点は局所視野です。サッカーの例でいうならば、スタンドで見ているコーチの視点は、全体視野で客観的な観察です。一方、各プレーヤーは本質的に一人称視点(局所視野のなか)で、刻々自分のプレーを選択します。パスを出す本田選手は、自分の立ち位置からみた一人称視点での世界の見え方のなかで、パスを出す方向やタイミングを決めます。パスを受ける岡崎選手も、一人称視点で、あるタイミングで、あるスペースに走り込みます。

三人称的気づきと、一人称的な気づきはそもそもの質として異なると述べている。これは、コンピュータと人間の対比としても述べられていて、

コンピュータにはない臨機応変さ、柔軟さとはなにかについての仮説が得られるのです。逆にいえば、これまでそういう研究方法論をとらなかったから、ひとは臨機応変で柔軟であると誰もが口にするものの、その正体が知能研究の知見として解明されていないのです。

Zoomで自分の生活というものを否が応でも意識しなければならない今は、むしろデザイナーにとってチャンスとも言える。


話を戻すと、意識したことをメモとるぐらいなら誰でもできる。それでもいいかもしれない。でも、一人称的デザイン手法を取るなら、実際にその気付きからものを自作して、生活が豊かになったという身体性を獲得することまでに大きな価値があると思っている。


そのために、それを実行するためのプロトタイプ力が必要。先日、twitterで

プロトタイピング力は技術力とはまた違うもの。プロトタイピング力には、豊かな構想、エクストリームな想像とか妄想とか伴っていないと、あまり意味がない。そのストーリーの存在性、意味性を高めるもの。

という意見を見た。

zoom時代の気づきを完璧に実装する必要はなくて、あくまでその妄想をとりあえずの形に実装できるだけのスキルと環境が必要だと思っている。

試しに、zoomにリアルタイム翻訳を力技で実でしてみた。

特にプロトタイプの先程の意見をもとにするなら、ソフトとかハードとか一つに特化するのではなくて、横断的にものづくりのボキャブラリーを増やしていくべき。ソフトとかだと、APIをいかに使いこなすかとか、Qiita等からのリファレンス能力、ハードだと3D printerと100均術、ジャンク活用みたいなあくまで妄想をいち早く形にするための技術をつけていくべきだと思う。


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