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存在目的(purpose)の限界の考察から在りたい(be)と成りたい(have to)の関係を再考する

前回の記事で、存在目的(purpose)の限界に関する記事を書きたいと述べました。
その時はもっと先に書こうと思っていたのですが、偶然にも様々な方からお話を伺い、内容はそれぞれ違うものの、その全てに根底で共通する自分への気づきを促すものがあると直感しました。その直感が覚めないうちに記事を書いた方が良いと考え、存在目的(purpose)の限界に関する考察を出発点にしつつ、記事を書せて頂きます。

■ 存在目的(purpose)に限界はあるのか

2019年のTeal Journey Campusで、サイボウズ㈱の青野社長が、フレデリック・ラルー氏らとの対談セッションの際、「“組織さん”はおらへんでー。」という当時の副社長のアドバイスにハッと気付かされた、という話があり、鮮明に私の記憶に残っています。

この話を聞いた時、私は、ティール組織では、組織をメンバーと独立した生命体として捉えるから「組織さん」は当然に必要であり、ティール組織という文脈においてはあまり参考にならないかも、という印象を受けていました。

しかし、その後に自分の経験を踏まえて再考した際、組織を独立の生命体として過度に捉えすぎると、組織がメンバーの思いから離れ、独り歩きし始める可能性があることに気付きました。
その結果、組織が構成員であるメンバーから孤立し、組織がメンバーと別の存在(すなわち外的存在)になり、組織の存在目的(purpose)を追求することが、内的な探求でなくなってしまいます。これは、外的なものから影響を受けて判断する、いわば「成りたい(have to)」の状態に陥ってしまうことにほかなりません。

青野社長の話は、その危険性を示唆したもので、まさにティール組織の限界をご自身の体験に照らして語ったのだと理解できました。

これは、組織の羅針盤として機能すべき存在目的(purpose)が、もはやその機能を超えて暴走してしまった状況と言えるかもしれません。
そういった暴走による弊害が生じ得るという点において、内的なものだけにフォーカスして存在目的(purpose)を希求するアプローチは限界があると言えるのではないでしょうか。

■ どういうアプローチ(マップ)があり得るか

私は、最近まで、上記の形で存在目的(purpose)を追求していくと弊害が生じてくるため、追求をすること自体に限界や問題があるかもしれない、と考えていました。
したがって、追求がある程度できた段階では、もはや羅針盤を持たずして、組織が、「在りたい(be)」であれる状況を意識的かつ自発的に創れるようにすべきであり、そうなれば存在目的(purpose)が不要になる、と考えていました。

しかし、その後の垂水隆幸さんとの対話、下記の落合文四郎さんやストット怜さんの記事等を拝読し、さらには有識者の方々と意見交換させてもらう中で、「在りたい(be)」、組織の「在りたい(be)」を具現化した存在目的(purpose)の位置づけを適切に理解し、育んでいくためには、以下のアプローチ(マップ)が有用ではないか、と考えるに至りました。

■ 「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の関係性とその変化

そこで、まず「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の関係が、意識段階によって変化すること及びその関係性の変化の内容の全体像を俯瞰した上で、個別にご説明させて頂きます。

第7回 変遷図

I. <未分離>
「成りたい(have to)」と「在りたい(be)」が分離しておらず、両者が混然一体としている
(意識段階:オレンジ型(合理的段階)まで)
II. <分離>
「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」が明確に分かれ、「在りたい(be)」(存在目的(purpose))そのものを純粋に希求する
(意識段階:グリーン型(相対主義的段階)、ティール型(自律的段階))
III. <一体>
「成りたい(have to)」にも居場所を与える。「成りたい(have to)」があり、それも追及するからこそ、「在りたい(be)」の輪郭が際立ち、その内実がはっきりする
(意識段階:ターコイズ型(構築自覚的段階))
IV. <統合>
「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」は相互作用するもので、そうだからこそ両者は互いに密接不可分な存在である。
(意識段階:インディゴ型(触媒的段階))
V. <融合>
統合した上で、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」が作用し合うことで、それぞれの輪郭や境界線を溶かし、一致していく
(意識段階:さらに高次の段階)
VI. <無境界>
「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」と融合した組織(自分たち)や自分と世界すら溶け合う
(意識段階:最高次の段階)

上記ⅠからⅥは、全て気づきのプロセスであり、全て「在りたい(be)」状態です。
ただ、意識段階の変遷に伴い、「在りたい(be)」の形態や内実そのものが変容することを示しています。
詳細は、以下のとおりと考えています。

Ⅰ.未分離
Ⅰでは、その外形や内容において「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」を区別できません。

私には1歳半の娘がいます。娘を見ていると、彼女の行動や思考は生存本能そのままに生きていています。そして、おそらく行動や思考のほとんどが、私たち大人の事情や意図を慮ったものでない限り、常に「在りたい(be)」であると思われます。だから、無邪気であり、その姿に可愛さ、さらにはある種の清々しさを感じることがあるのではないでしょうか。

さらに、成人発達理論でいう意識段階のアンバー型(順応主義的段階)は分かりやすい例になると考えています。
アンバー型(順応主義的段階)は、法や規則、所属する集団に従順でありたい、と志向する傾向にあります。すわなち、自分が「在りたい(be)」と感じる対象がそもそも外的存在になります。そして、「成りたい(have to)」が外的存在の影響を受けたものを起点とするとすれば、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」がほぼ一致することは、あり得ることだと感じています。
戦国時代の名武将たちが統率する戦闘集団は、組織のメンバー(家臣)たちが戦国大名に心からの忠義を抱き、その能力を開花させ、武功をあげていました。これは、アンバー型(順応主義的段階)の組織が「在りたい(be)」状態にあって、大きな成果を上げた例であると考えています。

さらに、オレンジ型(合理的段階)まで含めたのは、「合理性」という価値基準が、客観性という要素を多分に含むものだからです。
「客観性」が外的存在に由来するものである以上、理性という内的なものを出発点としても、外的存在から大きな影響を受けていると言えます。そのため、未だ「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の区別が、上手く付いていない状態に位置づけられると考えています。

Ⅱ.分離
Ⅱでは、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」が明確に分離していきます。
心身の成熟によって、外的存在の影響からある程度の距離が置けるまで、自我が発達します。その結果、内省的な能力が育まれ、自ら又は組織の内なるものに焦点を当てて、探求するようになります。

意識段階のグリーン型(相対主義的段階)は、感情といった自分たちの内なるものにフォーカスし始めているため、「在りたい(be)」の存在に気づき、探求を開始する段階と考えています。

さらにティール型(自律主義的段階)は、より成熟しているため、感情だけでない様々な思考や考えを自分たちの中に取り入れることが可能になります。そのため、「成りたい(have to)」という外的な存在をある程度視野に入れつつ、適度な距離を持てるようになり、内なる「在りたい(be)」について、自分たちで充分な環境を整えて主体的に希求することができるようになります。
その結果、「在りたい(be)」の中核部分が徐々に鮮明になり、「成りたい(have to)」との分離が促進されていきます。

ただ、この段階は、「『在りたい(be)』が『成りたい(have to)』は、実は違うものなんだ。じゃあ、『在りたい(be)』ってそもそも何だろう??」と考え、内省的な探求に心を傾けます。そのため、「成りたい(have to)」をあまり意識しない、好ましくないものと軽視(さらには敵視)し、「在りたい(be)」だけに集中する傾向にあると考えています。

Ⅲ.一体
Ⅱでは「在りたい(be)」について、内省的な探求で中核部分は何となく分かってきても、中核から離れた周縁部にいくほど、曖昧で漠然になってきます。

そこで、Ⅲは、その曖昧さや漠然さを明確に意識し、その曖昧さや漠然さを薄めるためには、実は「成りたい(have to)」から「在りたい(be)」の境界を探す必要があることに気づきます。
そして、自分たちの「成りたい(have to)」とは別のものというアプローチで、「在りたい(be)」を理解し、輪郭を際立たせる、すなわち、「成りたい(have to)」があるからこそ、「在りたい(be)」が「在りたい(be)」であれる、ということに気づきます。

これは、Ⅱが「成りたい(have to)」を軽視(敵視)していた状態と異なり、「成りたい(have to)」自分たちを受容し、居場所を与えることです。この点は非常に大切なことだと考えています。

前回の記事で言及しましたが、「成りたい(have to)」は、生存本能に由来していると考えています。そして、私たちの生存本能は決して無くなりませんし、無くすことはできません。私たちは、食べる、寝る、といった基本的な生理的現象を排除できない以上、それに抗うことはおそらく不可能です。
無くそうと思えば、生存本能は、自らを生き残らせる(survive)ために、圧倒的な力で私たちに襲い掛かってくるでしょう。だからこそ、「成りたい(have to)」を置き去りにした形で、「在りたい(be)」を具現化した存在目的(purpose)を追求することは、上記の弊害、すなわち、いつの間にか「成りたい(have to)」に浸食される、といった事態が生じてしまうのではないでしょうか。

意識段階のターコイズ型(構築的自覚段階)は、目の前の事象は全て自分たちの自我が構築したものであること(人工物であること)を明確に認識できる段階といわれています。
すなわち、「在りたい(be)」も「成りたい(have to)」も、実は自分たちがその境界を作り、両者をそれぞれ「これは『在りたい(be)』もの。」「こっちは『成りたい(have to)』もの。」と自分たちが分類しているだけに過ぎない、と気づくようになります。
そのため、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の境界線に焦点を当て、さらには両者がいずれも自分たちが意図的に作り出しているもの、という感覚に至ることで、「成りたい(have to)」にも居場所を与え、両者が不即不離(付かず、離れず)の関係にあると把握する、あるいは不即不離の関係を築けるようになると考えています。

Ⅳ.統合
この不即不離の関係を成熟させていけば、それぞれが一方の輪郭や境界を定めるものであることを超え、互いに中身にまで影響を及ぼし合うこと、すなわち「在りたい(be)」が「成りたい(have to)」の中身まで作用する一方で、「成りたい(have to)」も「在りたい(be)」の中身に影響を与えて決定する、という関係を再構築できるはずです。
さらに、「成りたい(have)」という自然な衝動をありのまま受け容れられた時、実はその「成りたい(have)」という衝動は「在りたい(be)」が作用して発生させている、すなわち「成りたい(have)」の先にある深奥において「在りたい(be)」があることを発見することがあると感じています。
このように、それぞれがお互いの中身に影響を及ぼし合い、かつ、それぞれの深奥部にお互いが実は存在する、という関係にあることから、両者の真の統合であると考えています(この2つの側面があると考えたため、上記のⅣの変遷マップでも2つの図を示して”and"としました。)。

意識段階のインディゴ型(触媒的段階)において、テリー・オファロンは、境界線そのものを移動させることができる、と指摘しています。
これは、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の境界線をⅢまでで明確に把握できた上で、境界線そのものを移動させることができるため、「成りたい(have to)」の中に「在りたい(be)」を含めること、「在りたい(be)」の中に「成りたい(have to)」を取り込めることができるようになり、相互に影響を及ぼし合う関係を構築できるようになると考えています。
さらにはその境界を先に広げていくことで、「成りたい(have)」の境界の行き着く先に「在りたい(be)」を見出すことができるようになると考えています。

Ⅴ.融合、Ⅵ.無境界
さらに進めば、「在りたい(be)」が「成りたい(have to)」であり、「成りたい(have to)」が「在りたい(be)」となり、両者がぴったり一致する、すなわち境界線すら無くなると推測しています(「Ⅴ.融合」)。
そして、その先には、もはや外的な存在(世界)と(「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」が融合した)私たちすら溶け合う状態があるのではないかと想像しています(「Ⅵ.無境界」)。

Ⅴはインディゴ型(触媒的段階)を超えた高次の意識段階、さらにはⅥでは最高次の意識段階において身体感覚を伴って感得されるものと考えています。

■ 「在りたい(be)」であるために、「成りたい(have to)」に回帰する

先ほど述べた存在目的(purpose)の弊害は、主にⅡで起きやすい事象と考えています。
そんなときは、「在りたい(be)」を見つけるために、改めて自分たちの「成りたい(have to)」を吟味する、戻って考えてみる、という方法が効果的な対処法になり得ると考えています。
もとより、これは存在目的(purpose)の希求を諦める、ということを意味しません。存在目的(purpose)の内的な追求により中核部分をより鮮明にしていくことと同時に、ビジョン(vision)やミッション(mission)に改めてフォーカスし、自分たちの行動や考えを見直しつつ、(特にその境界部分に関して)存在目的(purpose)を磨いていく作業になると考えています。

さらに進めば、存在目的(purpose)(“why”の視点)の中にビジョン(vision)(“where”の視点)やミッション(mission)(“what”の視点)を適切に盛り込むことができ、他方、ビジョン(vision)(“where”)やミッション(mission)(“what”)といった目標や具体的なアクションを設定の中に、存在目的(purpose)(“why”)をクリアに見出し、そのままを含めた形で策定できるようになると考えています。
それが実現すれば、存在目的(purpose)、ビジョン(vision)、ミッション(mission)がそれぞれの居場所で自らの役割を十全に発揮しつつ、相互に補強し合うようになり、組織やメンバーにさらなる活力を与える可能性があると考えています。

いずれにせよ、組織の「在りたい(be)」である存在目的(purpose)について、希求の方法は変わるものの、その内実を明らかにする旅は終わらない気がしています。

■ 変遷マップの妥当性の検証

Ⅳ以降の記述が薄いことからもお分かりのとおり、正直に申し上げて、Ⅲの途中くらいからリアリティはありません。

ただ、上記の変遷マップにおける次の段階は、いわゆる前の段階の状態を「超えて、含む(transcend and include)」ものになれています(いずれの段階も「在りたい(be)」と「成りたい(have)」の双方を捨てない形で、前の段階を包摂できている点で『含む』ことを実現しています。)。そもそも、進化や成熟は、らせん状の発展を遂げる性質であるものであるとすれば、今回の変遷マップはその性質を保持しており、一定の妥当性はあるのでは、と感じています。

さらに、全体の変遷の流れは、禅の『十牛図』とほぼ軌を一にしています。
すわなち、「在りたい(be)」を“牛”に、「成りたい(have to)」を“人”に置き換えた場合、
 ①尋牛、②見跡、③見牛までがⅠ、
 ④得牛、⑤牧牛がⅡ、
 ⑥騎牛帰人は「在りたい(be)」でありつつ、「成りたい(have to)」である状態であると理解すればⅢ
 ⑦忘牛存人は、そもそも「在りたい(be)」のみを希求するという方法から離れ、「成りたい(have to)」の中から「在りたい(be)」を見出す、という点でⅣ
 ⑧人牛俱忘は、両者の存在が融合し消滅している点でⅤ
 ⑨返本還源、⑩入鄽垂手は、世界と融合している点でⅥ
とほぼ同じになると考えています。

『十牛図』は、悟りに至る段階を10に分けて記したものであり、歴年の覚者たちが大切にして、長期の検証に耐えつつ現代まで残されたものです。そのため、広く様々な事項に関する成熟・進化のプロセスを、普遍性のある真理として端的に表現したものと考えています(魂と心身、小我(遠隔自己・近接自己)と真我(超越的自己)(いわゆる「I-I」)の関係性やあり方の変遷も同様のプロセスを辿ると考えています)。

■ 全てに居場所を作る

上記のⅠからⅥの全ての段階は、「在りたい(be)」を追求でき、その人が「在りたい(be)」状態にあると言えます。ただ、「在りたい(be)」の中身が、徐々に変容していきます。

その変容は、「成りたい(have to)」との関係の変化に伴ってというより、むしろ車の両輪のように同時に生じると感じています。
そして、「在りたい(be)」の中身が変容していったとしても、「在りたい(be)」であれる瞬間に感じる主観的な精神の充実度に大きな差異はないはずです。そうだとすれば、どの段階が良いあるいは望ましい、というものではないと考えています。

私が、これが良いなぁ、と感じていることは、全ての人に「在りたい(be)」の状態の居場所を作れることです(落合文四郎さんも、全てを大切にしたいものであると述べており、同趣旨のものと理解しています。)。

異なる思考や考え方を持つ様々な人たちに共通の物差しを設定することで出来れば、互いに理解し合えるようになると考えています。今回の変遷マップは、様々な人の「在りたい(be)」を同じ物差しで眺めてみよう、という試みです(私が成人発達理論で最も優れていると考えている点も、あらゆる人間を同じ物差しで眺めることで、相互理解を深めようとする点にあります。)。
同じ物差しで見ることができれば、自分も以前はそうだった、という感覚が持て、共感や理解が自然と生まれやすくなります。

相互に理解し合えるということは、他人に優しくなれるということです。
人が健全に成熟するためには、安心して成長できる環境を整えることが何より大切だと考えています。人が自律的な成長をしていく上で、周りが自分を理解してくれているという安心は必要不可欠です。居場所を与える、ということは、優しさを生み、健全な成熟を促す土壌としての温かさや安心さを整えると考えています。

■ 改めて「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の違いを考える

上記のように、一見すると「成りたい(have to)」からの発露と思われる行動・思考でも、実は「在りたい(be)」ものであることがあります。
そうだとすれば、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の違いは何でしょうか。

現時点の私の考えは、真に内的な主体性をもった意思に基づくものか、そうではないものに基づくものか、という点にあると考えています。落合文四郎さんや垂水隆幸さんの言葉を借りれば、「主体的真理」と呼ばれるものかもしれません。

Amazonの創業者Jeff Bezos氏は、何かの判断を求められた際、「自分の人生を振り返った時に、最も後悔が少ないと感じられる選択は何か。」ということを基準に決断していると述べていました。
この言葉について、私は、結果ではなく、どこまで真剣かつ真摯にその問題と向き合って判断できたか、という姿勢の方が、後悔の少なさという点で優位性がある、と述べたものと理解しています。前の記事でも書きましたが、結果は多くの外的要因が影響します。そのため、仮にある決断をして結果が出たとしても、その後に結果に拘ると、次の決断を求められた際に適切な判断ができなくなります。そうなれば次の決断(あるいはその先の判断)で、いつか後悔が生じてしまいます。
彼の姿勢、「好奇心を羅針盤にしよう。Day1のままで(Let curiosity be your compass. It remains Day 1.)」といったメッセージは、まさに「在りたい(be)」に向けたものでないでしょうか。
資本主義社会の巨人となったAmazonの評価は様々ですが、「在りたい(be)」を純粋に追求し続けた先に、爆発的なエネルギーが生じ、大きな成果や結果が生まれる一例であることは間違いないと考えています。

その他、幼児は、花壇に生えている花を触ったり、抜こうとしたり、大人から見れば突拍子のないことをすることがあります。ただ、その行動は、「自分が生きている世界に好奇心を強く持ち、色々な経験をしたい!!」という気持ちの発露です。その無邪気な好奇心からのものであれば、後から振り返っても後悔を覚えないはずであり、Jeff Bezos氏と実はあまり変わらないと感じています。

この両者の共通項を考えてみると、いずれも真に内的な主体性をもった意思に基づくものである、という帰結になると考えています。

■ 真に内的な主体性をもった意思の大切さ

私たちの身の回りを見渡せば、コロナワクチンの接種の是非を始めとして、不確実な予測しかできない中で大きな決断を迫られることが間違いなく増えています。また、論理力・思考力の面で人間を凌駕するAI(人工知能)が急速に発展し、人間の判断能力に対して大きなインパクトを与えつつあります。
そういった現在の状況下で、内的な主体性をもった意思に基づいて判断して行動することの必要性は、人類の歴史上のどの時点と比較しても、急速に高まっているのではないでしょうか。

この点は、別の記事で少し詳細に私なりの考えを述べたいと考えています。

■ 「在りたい(be)」の純粋さと陥りやすい危険

「在りたい(be)」で在り続けること、さらにはそれを追求することは、前回の記事でも書いた通り、強靭さが求められ、簡単ではありません。
それを追求することは、強靭さの裏側にある、人の純粋な気持ちからの発露であり、本当に素晴らしく、大切にしなければならないものです。

ただ、純粋さゆえに、それが行き過ぎてしまうことがあります。その結果、気付かぬうちに、疲弊や消耗してしまうことがあるのではないでしょうか。
さらに、いつの間にか「在りたい(be)」とあらなければならない、という「成りたい(have to)」に取り込まれてしまうこともあると感じています。

具体例を挙げれば、上記Ⅰでは、「在りたい(be)」と「成りたい(have to)」の明確な線引きが存在しないため、「私は、『在りたい(be)』状態になりたいのに、『成りたい(have to)』ことしか考えられない。。」という思いや悩みを抱くことがあります。
しかし、それは実は「在りたい(be)」状態であるというということに気付ければ、不安になる必要はありません。
それを支援しサポートする関係者の方々も、そういう理解があれば、もっと安心して優しく背中を押してあげられることにつながるのではないでしょうか。何より、自分が自分自身を優しく包み込めるようになれます。

Ⅱも「在りたい」を純粋に希求するからこその苦しさがあり、さらに、いつの間にか「成りたい(have to)」に陥ってしまうことがあります。
そんな時、先の段階を意識できれば、見ないようにしていた「成りたい(have to)」にフォーカスし、その状態を素直に受け容れることができるようになるのではないでしょうか。
また、支援する関係者も、そういった葛藤に優しく居場所を与えて包み込み、その人の存在そのものを、温かく見守ることに繋がるかもしれません。

その先の段階において、仮に今回の変遷マップが正しくないとしても、「成りたい(have to)」を「在りたい(be)」から切り離し、生存本能という私たちの根源的なものに由来する「成りたい(have to)」のみを消滅させて、「在りたい(be)」だけの状態にすることはおそらく出来ないと考えています。
そうであれば、自分たちの生存本能に由来するものを過度に貶めず、居場所を与えてあげることが、生存本能や「成りたい(have to)」を止揚させ、いつのまにか「在りたい(be)」と同列、さらには融合すら実現することにつながると考えています。

そんな道行きを受け容れたとき、素足で大地をしっかりと踏みしめているような感触を味わいながら、その不安や苦しみすら楽しみと希望をもって歩むことができるようになれる気がしています。そうなれば、疲弊や消耗感から少し楽になれるのではないでしょうか。

■ 終わりに

繰り返しになりますが、強靭さをキープしながら、「在りたい(be)」であろうとする姿勢は、その内容がどんなものであれ、純粋そのものであり、尊いものです。
その難しさ故に、実現する手段(さらには言えば社会的実装の方法)の巧拙が当然存在します。拙いため、上手くいかないこともあるでしょう。ただ、誰かの、もがきを含んだ純粋さに触れたとき、結果や手段の巧拙から離れ、私はその姿に心の底から感動し、時には自然と涙が溢れでてしまいます。

私には、自分の目の前に起きる小さな出来事に一つ一つ丁寧に接していくことしかできません。ただ、その純粋な姿に触れたとき、心から共感して感動し、弱い自分とも向き合いながら、私なりの取り組みをしたいと考えています。

「在りたい(be)」の中身は、外部から与えられるものではありません。
だからこその難しさや苦しみがあります。

それは誰しも同じです。
そうであるからこそ、私は自分の両手で誰かの背中を少し支え、後押ししたいと考えています。そんな私も、自分と違う素晴らしい視座、能力、特徴や個性をもった沢山の誰かに背中を優しく温かい手で支えてもらう、そんな支え合いが大切だと考えています。

暗闇のトンネルの先にあるかすかな光を目指すように、先に光があることだけは確信をもっています。その光に向かって、皆で協力しながら一歩一歩進めていきたいと考えています。
前回の記事の最後でも述べた賢人たち、記事を通じて大いに勉強になり刺激を頂いた落合文四郎さんやストット怜さん、そして事務所の仲間やクライアントの方々、知人、そして私の家族に、私は自分の背中を沢山支えてもらっています。

その感触を大切に味わいながら、私なりの一つの取り組みとして、小さくささやかなものですが、この記事を読んで頂いた方の背中を少しだけ押すことが出来たり、肩が楽になったと感じてもらえれば、非常に嬉しいです。

最後までお読み頂き有り難うございました。