鷗外さんの「小倉日記」⑦ 「雁」と「無縁坂」
先日、上京した折、上野公園を訪ねました。
不忍池の近くに、鷗外さんの代表作「雁」の舞台になった坂があることを思い出し、足を延ばしました。
その坂の名は「無縁坂」。
東京都台東区と文京区の境、不忍池の池之端から本郷へと上る坂が、「無縁坂」です。
旧三菱財閥の旧岩崎邸庭園の北側に長い赤レンガの壁があってその壁に沿って長い坂が続いていました。
長い坂の上は東大医学部。
鷗外さんは、明治25年(30歳の時)に夏目漱石が小説『吾輩は猫である』を書いたことで知られる通称「猫の家」から、現在の文京区立森鴎外記念館が建つ文京区千駄木の「観潮楼」に転居。
大正11年7月9日、60歳で没するまでその地で暮らしました。
『雁』では、主人公の岡田が散歩をする描写がありますが、まさに「無縁坂」は鷗外さんが不忍池へと散歩するコースだったようです。
岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」(森鴎外『雁』)
坂途中にある講安寺は、元和2年(1616年)、無縁山法界寺と称したのが無縁坂という坂の名の由来。
〽 母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
(略)
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生
さだまさしの「無縁坂」は若いころの母親のことを愛情をこめて歌にした名曲です。
さださんはふるさとの長崎の坂に似たこの坂にインスピレーションを感じて作曲したのでしょうか。
そういえば、さださんには鷗外さんの「舞姫」に触発された「舞姫」という曲もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=_REiXiQ25OE
「雁」のあらすじ
明治十三年(1880年)、僕は東京大学の鉄門の向かいにあった上条という下宿屋に間借りしていました。
隣の部屋には1学年年下で、ハンサムでボート選手として活躍していた岡田という名前の学生が住んでいます。
岡田の散歩道はいつもきまっています。
コース内には無縁坂があります。
無縁坂には高利貸末造の妾で若く美しいお玉さんが住んでいます。
いつしか二人は挨拶しあう顔見知りになっていました。
貧困だが美しい「お玉」は、1度目の結婚で男に騙され、自殺未遂を図り、その後は父親を安心させる目的で、高利貸しの末蔵の妾になる。末蔵には妻子がいるため、お玉は1日の大半を女中と二人で暮らすことになる。
妾になり生活は楽になったが、代わりに退屈を覚えたお玉は、毎日家の前を散歩する岡田という学生に恋幕の情を募らせる。
そんなある日、お玉さんが飼っている小鳥が蛇に襲われ大騒ぎの所に岡田君が通り掛かり蛇を退治し小鳥を助けてあげます。 それ以来お玉さんは岡田君の事が気になってしかたありません。
お玉さんは岡田が家の前を通りかかった際に、勇気を出して声をかけて家の中へ招き入れて自らの思いを伝えるつもりです。
そんなお玉の熱い願いは、鯖の味噌煮と雁によって無残にも打ち砕かれてしまいます。
その日の上条の賄いは鯖の味噌煮でしたが僕は苦手で食べることができないために、岡田を誘って外食をすることにしました。
その時岡田は急に大学を退学してドイツへ行く事になった旨を友人達に報告します。
不忍池にかかる橋から水面を行き交う雁に石を投げているのは、同じ大学に通う柔道部の石原です。
雁を石で撃ち落とした石原は下宿先で捌いてごちそうしてくれるというために、 僕と岡田は彼の後に続きました。
雁は岡田が外套の下に隠して、残りのふたりが左右を挟む形で無縁坂を通り過ぎます。
家の前で待っていたお玉は、外套の下が異様に膨れ上がってふたりの男に挟まれた岡田に話かけることができませんでした。
お玉さんは、今日が岡田君と会える最後の日とは知りません。
無縁坂に立って岡田君がくるのを待っています。
不忍池から雁を持って下宿に帰る岡田君とお玉さんは何も言えず、ただすれちがうだけでした。
間も無くして、岡田は海外に旅立ち、お玉の恋は叶わず終いだった。
僕は岡田が海外に行った後にお玉と知り合いになりましたが、彼女との仲はそれ以上は進展することはありません。
もしも上条の献立が鯖の味噌煮でなければ、もしも石原の投げた石が雁に当たらなければ。 30年以上たった後でも、 僕はあの日の運命のいたずらをたまに思い出すのでした。