見出し画像

鷗外さんの「小倉日記」㉔林洞海

(明治三十二年八月)
十二日。雨午に至りて歇む。僦房主人來り話して曰く。林洞海の父は素と小笠原藩の小吏にして出納を掌る。私ありて逐はる。三子あり。 相率て長崎に至り、蘭醫方を學ぶ。最慧なる者某早く歿す。次は洞海にして幕府に仕ふ。次は小倉の市醫たり。洞海の父は小林氏、市醫某は篠田氏なりきと。

12日昼になって雨はやみました。
鷗外さんが借りている鍛冶町の住まいの大家、宇佐美さんが訪ねてきて、旧小倉藩出身で幕府の偉い医者になった林洞海さんについて話しました。
林洞海さんは1813年、豊前小倉に生まれ、江戸に出て蘭医学を学び、長崎に佐藤泰然と共に遊学しオランダ商館長のニーマンに師事、その後江戸日本橋薬研堀に開業。幕府医官となり、明治維新後は静岡藩沼津病院副長を務めたのち、明治政府に出仕。大阪医学校(後の大阪大学医学部)校長、皇太后侍医等を歴任した人です。
林洞海さんは、鷗外さんの前妻、赤松登志子さんの祖父にあたります。

林洞海さん

林洞海さんはともにオランダ医学を学んだ順天堂創始者、佐藤泰然さんの娘・つると結婚、その次女貞は赤松則良に嫁ぎました。その長女が鷗外さんの最初の妻、赤松登志子さんなのです。
宇佐美さんは、そんなことを承知で鷗外さんに、林洞海さんの話をしたに違いありません。
当時、小倉市内に「篠田」という洞海さんの弟が開業していたようです。

十三日。日曜日に丁る。
十四日。風頗る勁し。午後驟雨一過す。夜に至りて風歇まず。 審美新説を艸し畢る。
十五日。暴風雨、天明くれども板戸を開くに由なし。 夜又雨ふる。
十六日。昨日未醬東京より至る。今朝始て未醬汁を作らしむ。
牆外插花竹筒を賣る聲頻なり。盂蘭盆會近ければなるべし。



14日、「審美綱領」に続きドイツの哲学者であるヨハネス・フォルケルトが著した、『審美上時事問題』のあらすじを述べた「審美新説」を書き終えました。

審美新説(鷗外記念館蔵)


15日は暴風雨。
16日、醤油に続き東京から未醤も届き、初めて味噌汁を作らせたと書いています。
これまで味噌汁は作らせていなかったようです。
垣根の外では、花と竹筒を売る声が盛んに聞こえてきました。
盂蘭盆会が近いからです。 
お盆は先祖の霊が帰っ てくるので供養するという民俗行事です。
お盆の起源は、倒懸の苦しみを 受ける死者のために僧侶に施しをすると七代の父母を救済するという「盂蘭盆経」に基づくものとされています。
「倒懸」は、三悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生界を指します)に堕ちた亡者の苦しみが、生きた人間が逆さ吊りにされるくらいに辛いものであることを表す言葉です。
お盆は、自らの業に苦しむ亡者に供養の徳を回向し、その苦しみを少しでも和らげ、一刻も早くその業を解消し、三悪趣を逃れることができるように願う3日間です。
鷗外さんもこの時期の小倉の民俗行事に関心を持つようになります。

神保漢口東肥洋行に在りて書を寄せて曰く。此地善書なし。書を學ぶものは筆を師の作る所の字の上に立てゝ、徐に撫摹するのみ。即ち所謂摸書の法なり。その人の師たるものを見るに俗書多し。張之洞の如きも猶且善書ならず。 又善画なし。 又善詩なし。却りて倭人詩に巧なりなどと、賞讚す。要するに書と云ひ詩と云ふも、彼唯ゝ考試のために學ぶのみ。誰ぞ能く妙處に詣らんや。頃日黄鶴樓に登る。漢口、漢陽、武昌、皆指顧の間に在り。此景獨り聞く所に負かずとなす。
舟中口號。 風打舟窓暮色收。 長江萬里碧空秋。 老來猶有烟霞志。
欲繼坡翁赤壁遊。 
戍小倉寄神保生在漢口次韻二首
錐穎不堪囊裡收。 男兒得意是今秋。 別來頻人成樓夢。巨艦長風萬里遊。
別前相見涙難收。別後淹留況値秋。一事猶堪爲慰藉  大江明月待君遊。
タに井上中将の船小屋泉より還るを聞き、往きて訪ふ。夜雨。
十七日。午後雨ふる。

清に行っていた神保から手紙が届きました。
日清戦争に勝利して奢っていたのでしょうか、清には良い書も絵も詩もないと手紙に書いていました。
最近、黄鶴楼に登ったが評判よりけしきのよいところだった、と感想を書いています。

黄鶴楼

黄鶴楼は三国志の時代、赤壁の戦いに勝った孫権が湖北省武漢市を流れる長江東岸の、蛇山の上に建てた楼閣。
「故人、西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月、揚州に下る」。有名な李白の詩です。
神保の作った五言絶句を二首紹介しています。

夕方、井上師団長が湯治に行っていた船小屋温泉から帰ってきましたので、訪問しました。
船小屋は藩政時代、柳川藩の土木用の船を格納する小屋があったので「御船小屋」といってみだりに立ち入ることのできない場所でした。
1886年に船小屋の鉱泉が飲用、浴用に適すことがわかると、1888年に鉱泉浴場の開発が始まりました。

船小屋温泉

船小屋温泉の効能は次第に広まり入浴客が急増、昭和13年発行の「日本案内記」には「日露戦争当時、陸軍の転地療養所となり、次第にその名を知られてきましたが、、、、」とあります。
このころの福岡の温泉は、今のように多くはなく、1000年の歴史の二日市など数か所しかありませんでした。
明治29年、熊本の第五高等学校の教授として赴任した夏目漱石も9月に夫妻で船小屋温泉に宿泊しています。
漱石が船小屋で詠み、正岡子規に送った俳句
「ひやひやと雲がくるなり温泉の二階」

#森鷗外 #小倉日記 #順天堂 #林洞海 #赤壁の戦い #三国志 #船小屋温泉 #夏目漱石 #盂蘭盆会


幕府オランダ留学生に林洞海の息子


 幕府は先進国の軍事技術・学問修得のため、文久2(1862)年優秀な幕臣と職人をえりすぐってオランダに派遣した。 軍艦操練所からは内田恒二郎、榎本釜次郎、沢太郎左衛門、赤松大三郎、田口平、蕃書調所からは西周と津田真道、長崎養生所からは医学を勉強中の伊東方成と林研海、それに船大工上田寅吉等の職人である。同年9月長崎から出帆したが、ジャワ海で難船に遭い、オランダに到着したのは文久3(1863)年4月であった。各人は同地で長期にわたって勉強し、慶応元(1865)年から4(1868)年にかけて、順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いた。

林 研海

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?