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鷗外さんの「小倉日記」㉓醤油の味

(明治三十二年八月)

六日。日曜日に當る。 暑中伺候と稱して来り訪ふもの終日絶えず。
七日。登衙して隔日休沐の事をさだむ。
八日。始て暇居す。夕に筑摩定三郎の東京に往くを送る。
九日。醬油東京より至る。此地の醤油と未醤と皆不熟にして食ふに堪へず。故に家人をして遠く搬致せしめしなり。

8月初めの日曜日の6日、暑中見舞いのお客が一日中ひっきりなしに訪れました。「お盆」の挨拶です。現在は近くの友人でもはがきで「暑中見舞い」をすませますが、本来、このように相手の家をたずねて挨拶するものでした。
翌日、役所に出勤、隔日で休むことを決めました。休沐(きゅうもく)とは官吏の休日のこと。沐は沐浴の沐、髪を洗うことです。漢代には五日ごとに、唐代では十日ごとに、家に帰り沐浴(もくよく)することを許されました
古代中国からの習慣です。

中国の絵「五日休沐帰」とある

鷗外さんは九州の未醤(味噌)、醤油は「不熟」でおいしくないと書いています。
九州の人が東京で食事して「東京の醤油は塩辛い」とか、東京の人が九州に来て「九州の醤油は甘ったるくて寿しがまずくなる」などと言うのをよく聞きますが、狭い日本でも地域によって随分味覚が違います。
甘い醤油が好まれるのは九州、山口です。
醤油の製造方式には、本醸造(約9割)、混合醸造(1%未満)、混合(約1 割)の3種類があります。

一般的な醤油の原料は、大豆と小麦。
関東地方の醤油(本醸造醤油)は、この二つを原料に酒造りのように「麹菌」を足して発酵させて熟成させます。
甘味を使用しないスッキリとした味です。
一方、九州の醤油(混合醤油)は、「米麹」を使うのが特徴とされています。混合醤油とは、本醸造醤油または混合醸造醤油にアミノ酸液または酵素分解調味液、発酵分解調味液を混合したものです。
九州の甘い醤油は、一部混合醸造もあるが大部分 が混合方式だそうです。
「ニビシ醤油さんによると、甘い醤油が生まれたのはおそらく戦後の物資が不足していた混乱期。醤油の原料となる大豆が手に入らなくなり、醸造した醤油が作れなくなった時代があったのだそう。その代替案として誕生したのが大豆を加水分解した「アミノ酸液」。このうま味の強いアミノ酸液に、本醸造醤油、さらに複数の甘味料を原料とした混合醤油こそ、甘くて濃厚な福岡の醤油ということなんです」。(RKB毎日の放送より)

福岡を代表する醤油の一つ、ニビシ醤油

この記事から、鷗外さんのいた時期の北九州の醤油は必ずしも甘くはなかったかもしれませんが、塩辛い醤油を好む東京の人からは物足りなかったのでしょうか。鷗外さんはわざわざ東京から取り寄せています。
それにしても「食ふに堪へず」とはずいぶんですね。
当時の小倉の醤油について詳しい方がおられたらどうか教えて下さい。

十日。美以教會牧師金子卯吉審美綱領を携へ来りて質疑す。
吉田五嶋より歸りて其風俗を話す。街面屋上皆石なり。夏涼しく冬喧なり。土人穀少きを以て、甘藷を截りて日に曝し、常食とす。 かんころと云ふ。生なるまゝに干したると蒸して干したるとあり。一夜漁を觀る。 魚を獲ることの易きに驚く云々。薄暮雨ふる。
十一日。夜雨暁に向ひて霽る。此より稍ゝ涼し。森友道來り見ゆ。是日家々竹を買ひ紙を裁ち、乞巧の備をなす。蓋明日は陰暦の七月七日なればなり。


10日に美以教會牧師金子卯吉(白夢)さんが、ハルトマンの「美の哲学」の大綱を編述したという鷗外さんの「審美綱領」(春陽堂 明治32年6月)を携えて訪ねてきました。

審美綱領

美以教會とはプロテスタントの教派の一つであるメソジスト教会のこと。金子卯吉さんは当時小倉にあった教会で牧師をしていました。
金子牧師(1873.2.4-〜1950.4.20)は千葉県出身、明治学院卒。最後は名古屋愛知教会で牧師をしていました。(関西学院、青山学院説も)
金子牧師の記述「私の読詩生活」によると、

私が九州のK市に住んで居つた頃ーーそれは明治三十一年の夏から三十四年の春頃までの間ーーそのK市の東禅寺の老僧に片山文器と云ふ師家があつて『碧巌録』の提唱を公開しておられた。(略)丁度其の頃森鷗外先生が第十二師団の軍医部長としてK市に赴任されて来、鍛冶町の借家に住んで居られた。(略)先生の来任を聞いて非常に喜び、先生の赴任早々先生の門を叩いて刺を通じたのであつた。極めて平民的な先生は私のやうなものを歓迎して呉れたのが縁となつて、殆んど毎日のやうに五月蠅く御訪ねしたものであつた。

などとあり、金子牧師は鷗外さんに審美綱領について尋ねたり、ドイツ語を習ったりして、親しくしていたことがわかります。
東禅寺は安国寺の末寺、小倉北区堺町にありましたが、昭和20年に焼失しましたた。鷗外さんは心理学会の講座を持っていました。

また、金子牧師は愛知教会時代、文化講演会を盛んに行い、多くの人材を輩出しました。戦後、婦人運動のリーダー的存在であった市川房枝さんもその一人です。
6月末、地図を持ってきた吉田成太郎軍医が五島列島の習俗を報告に来ました。

かんころ餅
石積みの屋根

石積みの家屋やかんころ餅、魚が容易に取れることなどに感心したと記述しています。吉田軍医は近づく日露戦争に備え視察に行ったのでしょうか。
これより数年後、日本海海戦で有名なロシアのバルチック艦隊が最初に現れたのが五島列島海域です。

五島の大瀬崎灯台

11日の日記には、家々は竹を切り紙を裁ちて「乞巧奠」(きこうでん)の準備をしていると小倉に残っている風習「乞巧」のことを書いています。
「乞巧」は「乞巧奠」の略で、牽牛(彦星)・織女(織姫)が一年に一度天の川を渡って逢えるという七夕伝説に因んで、二つの星に裁縫などの技芸が巧みになるよう乞いて(お願いして)物をお供えする奠(まつり)という意味です。この頃はちょうど陰暦の7月7日に当たります。

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