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どんな救いを:聖書をめぐる旅 4/2

4/2(土)
 人間が、罪によって縛られている存在であり、罰という牢獄につながっていることを考えさせられました。この罪からの救いが、本当は必要なことなのです。

ヨブ記26章 

1ヨブは答えた。
2あなた自身はどんな助けを力のない者に与え
どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。
3どんな忠告を知恵のない者に与え
どんな策を多くの人に授けたというのか。
4誰の言葉を取り次いで語っているのか。
誰の息吹があなたを通して吹いているのか。

 ヨブの言葉は、
あなたは、何の権威によって私にアドバイスをしているのか?
今まで、そのアドバイスで誰を助けてきたのか?
と問うています。
ある意味、今まで誰も立ち上がらせたことのない者が、
私にアドバイスするというのか?
そもそも、お前の思想の背景が隠れているじゃないか!、と。

人はアドバイスによって、動くのではなく、
本人の納得によって動きます。

ヨブの言葉からは、友の考えよりも自分の考えが勝っている。
そして、友がいう神様が何も発しない今、この理不尽を受けた怒りの矛先をどこに向けたらいいのか?
状況が悪くなればなるほど、内面が露呈してしまいます。
かつて、神への信仰が厚いと評判であったヨブの内面も、
神様との交流がない状態では、貧しいとしか言いようがありません。


イザヤ書1章

2天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。
わたしは子らを育てて大きくした。
しかし、彼らはわたしに背いた。
3牛は飼い主を知り
ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らず
わたしの民は見分けない。
4災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
悪を行う者の子孫、堕落した子らは。
彼らは主を捨て
イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。

 イザヤ書は3部に分かれているようです。第1イザヤ(1~39章)は政治的術策に頼らずひたすら神を信ぜよという警告、第2イザヤ(40~55章)は迫害に苦しむ民への慰めと解放の宣言、第3イザヤ(56~66章)は帰国後の同胞への励ましと教え、とのことです。
 
 今日の聖書箇所は、飼い主と牛の関係、主人とろばの関係のように、神様と人間の関係があるはずなのに、人間は神様を忘れてしまったとあります。地上で一番賢いと自負している人間が、牛やろばのような存在であることを受け入れるのは、難しいかもしれません。神から離れて、自分の力で生きてきた人にはなおさらです。人間が、偶然生まれたのではなく、創造主なる方がおられることに、目が開かれることは人生を生きるうえで、大切なことです。世界が誰によってつくられ、その中で自分の役割が何かを知らずに生きることは、無意味な人生という牢獄につながれたようです。ここに、人間が自分の力でどうすることもできない、罪の問題があります。それは、人生の最後に神様の前に出て弁明するシーンにつながることです。
 屈辱的ですが、牛や羊の方が、自分の飼い主をわすれません。
私たちは、創造主なる方、そして罪からの救い主なる方が必要です。
 

参考文献:ブリタニカ国際大百科事典 


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