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神の箱の中身:聖書をめぐる旅 1/2

1/2(日)
歴代誌下5章は、神様の神殿に神の箱をはこびいれたところ、神様の雲が神殿に満ちたとあります。詩編112編からは、心を守ることを思わされました。

歴代誌下5章


6ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。
10箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトから出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセが納めたものである。
13ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。

→出来上がった神殿に神様の箱が運び入れられます。
私が注目したのは、ここで、多くの羊や牛がささげられていて、その数があまりにも多くて数えることができなかったという記述です。いけにえは、初子の贖いでもあり、イスラエルの民がこの後にも数えきれないほどに増えるという兆しかと思わされました。
 もう一つ、神様の箱の中にあったマナとアーモンドの杖はどこにいったのかということです。マナは、天からのパンとして荒れ野で神様がイスラエルの民にあたえてくださったものです。アーモンドの杖は神様の選んだ祭司がアロンであることを示したものです。一説によると、神様のパンとしてのイエスキリストが与えられること、アロンではなくメルキゼデクの系譜としてイエスキリストがこられることを予表して、とりのけられたという考えもあるそうです。あれだけ大切にされていた神様の箱をあけたら、3つのうち1つしかなかったら、かなり慌てるとおもいますが、神殿に神の箱が運び入れられるシーンで混乱している様子はありませんので、民も納得していたことなのでしょうか。
 神様は与え、取りされれる。


詩編112編

1ハレルヤ。
いかに幸いなことか
主を畏れる人
主の戒めを深く愛する人は。
2彼の子孫はこの地で勇士となり
祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
7彼は悪評を立てられても恐れない。
その心は、固く主に信頼している。
8彼の心は堅固で恐れることなく
ついに彼は敵を支配する。
10神に逆らう者はそれを見て憤り
歯ぎしりし、力を失う。
神に逆らう者の野望は滅びる。


「彼の心は堅固で恐れることなく」
心を守ることの大切さは、箴言4章の中にも次のように記載されています。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。
そこに命の源がある。」(箴言4:23)
イエスキリストを信じるということは、心の王座にイエスキリストをお迎えすることという話をきいたことがあります。
それまで、心の王座には、誰が座っていたかというと、自分です。
ここは、本来神様がすわるべき場所に、罪をおかした人間は自分が自分の王座にすわり、神様がなしで生きていても、何も感じなくなっています。
 パスカルは、心の中に、神様の形をした空間があるといいました。人間は、その空間に何かを入れたがるが、お金を入れても地位を入れても、満たされません。
お正月に、神社に行く人達の心の中にも、神様の形の空間を認識しているように思います。何か、この空間をうめるものがあるのでは?と感じているのではないでしょうか。
人間が神様と共に歩むように作られているというのは、この心の王座にイエスキリストをお迎えする歩みだと思います。
この詩編112編は、主を畏れる人の恵みに満ちています。


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