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ベラカ(たたえること):聖書をめぐる旅 1/17

1/17(月)
 歴代誌下20章、敵を前にしたヨシャファト王の祈りから、神様にきかれる祈りの型を考えてみました。詩編127編からは、子どもを授かる恵みを考えさせられました。

歴代誌下20章

1その後、モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ。
14その会衆の中で、アサフの子孫のレビ人ヤハジエルに主の霊が臨んだ。ヤハジエルの父はゼカルヤ、祖父はベナヤ、更にエイエル、マタンヤとさかのぼる。 15彼は言った。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。
20翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。「ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」
22彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。ラカの谷に集まった。そこで主をたたえたので、その地名はベラカ(たたえること)の谷と呼ばれ、今日に至っている。


ヨシャファト王に対して、周囲の3つの国々が大群の兵をあげます。
これに対して、彼が頼りにしたのは、自分の軍備でも、自分たちの勇士でもなく、主なる神様でした。
彼らが、大群を前に心を一つにして祈った姿は、この世の視点からは一見弱い姿に見えます。

しかし、ヨシャファトの戦略はこの世ではなく、天の軍勢を動かすことでした。ヨシャファトの祈りから、主が働かれる祈りの型を学ぶことができます。要点をまとめると次のようになります。

①主がどのような方であるかを宣言する(主のお名前)
②主が自分たちにしてくださったことを数える(感謝)
③神殿にある御名によって助けを求めて叫ぶ(主の名前によって叫ぶ)
④自分の無力さを告白し、神様しか助けがない故に助けを求める(自分の無力さを認め、神様だけが助けであることを宣言して助けを求める)
⑤王も住民も御前にひれ伏し礼拝する(体でも霊でも礼拝する)
⑥レビ人は大声を張り上げて、主を賛美する(賛美する)

 特に⑥は、既に主の勝利の先取りの喜び、勝利の賛美のようにも思います。
 そして、彼らが敵に対峙するにあたっての作戦は
主に向かって歌を歌い、軍隊の先頭に主の聖なる輝きをたたえる者たちを歩ませることです。
これは、主の臨在を解き放つ行為のように思います。
「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに」
その結果、主がユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられ、大勝利となります。
ヨシャファトは、人間ではなく、主により頼んだ王でした。
「これは、主の戦いである」

詩編127編

主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
3見よ、子らは主からいただく嗣業。
胎の実りは報い。
4若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
5いかに幸いなことか
矢筒をこの矢で満たす人は。


今年も、札幌グッドアワー教会は大通西20丁目に立ち続けています。
教会は、主ご自身が建ててくださるのでなければ、継続できません。
教会は、建物が大事なのではなく、頭をキリストとする生きるクリスチャンのつながりです。そして、クリスチャンの内側に、聖霊様が住んでくださっています。

今日の箇所は、子どもの恵みが書かれています。
私も2人の親ですが、この命は神様からお預かりしているものです。やがて、神様の御用のために用いられるために、親として育てる責任が私たちにはあります。
子どもを矢ずつを満たす矢に例えているのは、神様の的を射た人生に向かうための備えとも言えるなあと思います。
弓と矢、聖書の中に度たび出てくるこの武器は非常に愛着がわきます。


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