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彼が悪の道から離れ:聖書をめぐる旅 6/19

6/19(日)
 神様は真の悔い改めを求めておられること、そして本当に悔い改めた者が生きることを望んでいることが伝わります。  


エゼキエル書17章

3-4色とりどりの羽を持つ大わしが
レバノンに飛んで来て、
いちばん高い杉の木のこずえの若枝を摘み取り、
商人の町へ運んで行った。
5そして、その地の種を取って、
柳のように早く育つようにと、
大きな川のほとりの肥えた地に植えた。
7さて、大きな翼と豊かな羽をもった
別の大わしが来ると、
木はそのわしに向かって、根と枝を伸ばした。
24こうして、高い木を切り倒し、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れた木を生き返らせるのが主であるわたしであることを、すべての人が知る。主であるわたしがすると言ったことは、必ずそのとおりになる。」

 二羽の大わしとその顔色をうかがうぶどうの木のたとえ話です。一羽の大わしはバビロン、もう一羽の大わしはエジプトを意味し、はじめの大わしに良い地に植えられ育ったのはユダヤ人のことです。バビロンに植えられたにもかかわらず、ユダヤ人がエジプトにむかってのびていく姿を、ゆるせるだろうか?と。神様は、ユダヤ人がひそかに行っていることをお見通しの方であり、そして真の悔い改めを望んでおられることがわかります。
 そして、高い木を切り倒し、低い木を高くし、緑の木をからし、枯れた木を生き返らせるのが主であると語っています。これは、イエス様が失われた1匹の子羊を探しにいく様子に重なります。
 


エゼキエル書18章

4わたしは、父であろうと子であろうと、すべての人を同じようにさばく。それも、自分の犯した罪のために罰せられて死ぬのだ。
19あなたがたは驚いて、『どうしてですか。子が親の罪を負わなくていいのですか』と聞き返すだろう。そうだ。負わなくていいのだ。その子が正しく生き、わたしのおきてを守るなら、必ず生きる。 20罪を犯した本人が死ぬのだ。子は親の罪のために罰せられてはならず、親も子のために罰せられてはならない。正しい者は自分の善行に対する報いを受け、悪者は自分の悪行に対する報いを受ける。
23主はこう尋ねます。「わたしが、悪者の死ぬのを見たがっているとでも思うのか。わたしは、彼が悪の道から離れ、正しく生きるようになることしか願っていない。
30ああ、イスラエルよ。わたしは一人一人を、その行いに応じてさばき、報いを与える。さあ、今のうちに悪から離れるのだ。 31悪の道をあとにして、新しい心と新しい霊を受けよ。ああ、イスラエルよ。なぜ死に急ぐのか。 32わたしは、あなたがたが死ぬことを喜ばない。悔い改めなさい。悔い改めて、生きるのだ。」神である主がこう語るのです。

 人は誰の罪によって裁かれるのか?
父の罪によるのか?自分の罪によるのか?
そして、そういう神様の御心は?
 ここでは、人は父の罪ではなく、自分の罪によって、裁かれると宣言されています。正しい者が罪を犯せば裁かれます。悪い者が悔い改めて正しいことを行えば生きます。そして、神様の御心は悪い者が死ぬことではなく、悪の道から離れて正しく生きるようになることです。
悔い改めることができるというのが、恵みであることがわかります。
人間の価値観は、一度悪いことのレッテルが張られると、ずっとそのようなレッテルで見られますが、神様の視点はまったく違います。
私たちは、イエスキリストの十字架の業によって、神様からまったく罪赦された者とみられており、そのような存在に代えられました。
悔い改めは、新しい人生のための恵みです。

 


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