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あなたを離れません:聖書をめぐる旅 11/6

11/6(土)
列王記下では、エリヤが天に上げられる前のとエリシャとのやりとりが描かれています。弟子が師に求める姿勢を考えさせられました。
詩編では、不安や悩みをどうしたらよいか?
聖書の知恵が語られています。

列王記下2章

 
エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。

→「あなたはここにとどまっていないさい」に対して「わたしはあなたをはなれません」が3回繰り返されていることの意味は何でしょう?
3回繰り返されるのは、法廷に突き出されるイエス様の前で「イエスを知らない」と言ったペトロと、炭火の前で復活したイエス様がペトロに「あなたは私を愛していますか?」尋ねたことを連想します。
3回繰り返すことは、大きく印象付ける意図を感じます。
師の言葉に従うことよりも、師を離れないことを宣言することが大切だということかと思います。
エリヤとエリヤが二人で出かけていく様子は、聖霊様と私たちが共に歩く姿にも重なります。

渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。


エリヤが天に上げられる前に、弟子のエリシャに「なんなりと願いなさい」というと、エリヤの霊の2つ分を求めています。
エリヤの霊の力だけでも、すごいのに、その2倍とは桁外れの願いのように思います。
しかし、神様はけた外れの願いを聞いて下さる方です。
マタイの福音書7章に「求めなさい、そうすれば与えられる」というイエス様の言葉があります。
たちは、どこかで求めても与えられるはずがない・・・とあきらめているのかもしれません。
エリシャが求めたのは、物質的なものではなく、霊の2つ分というところも考えさせられます。目に見えるものではなく、その根底にある見えない世界のものを求めています。
私たちもイエス様の霊の2つ分を求めたいと思いました。

彼は水の源に出かけて行って塩を投げ込み、「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』」と言った。

→あなた方は地の塩であるというイエス様の御言葉を思い出します。
塩が投げ込まれると水が清められ飲めるようになることは、今日私たちがこの地に遣わされている意味のように思います。
日本中に1%に満たないクリスチャンであっても、この世という水を清めることに用いられますように。
ここから死も不毛も起こらない!


詩編55編

わたしに耳を傾け、答えてください。 わたしは悩みの中にあってうろたえています。 わたしは不安です。 敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。 彼らはわたしに災いをふりかからせようとし 憤って襲いかかります。
あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。

→悩みや不安との上手な付き合い方は、この世の中で生きていく上でも重要なことです。しかし、悩みや不安に対処する方法について、学校では教わりません。
 聖書は、悩みを「自分で解決しなさい」「努力しなさい」という解決方法ではなく、「主にゆだねよ」と語っています。デジタル大辞泉によると「委ねる」とは、「まかせる」ことであり、「すべてをささげる」こととありました。悩みを持ち続けることではなく、神様に任せることが解決の方法です。
悩んでなんとかならないものは、神様にまかせて、自分が今できることをするということかと思います。
ここで「どう委ねるか」というところで、「祈り」が生まれるのだと思いました。

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