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捕囚としてバビロンに:聖書をめぐる旅 11/28

11/28(日)
列王記が終盤になり、とうとう南ユダが風前の灯のようになります。その国の宝が奪われ、王が外国に捕囚として連れ去られてしまいます。このことをどう考えればいいのでしょうか。
詩編77編は、被造物から見た創造主の視点を考えてみました。もちろん、私たちも被造物ではありますが・・・

列王記下24章

3ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、 4またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。
13主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。
5彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。

→ 先祖から脈々と続いてきたお店が、自分の代で店じまいになる時、どのように感じるのでしょう。
ここに出てくるのは店長ではなく、国の王様の話です。
神様に導かれた国、南ユダから神殿の中の宝が運び出され、その王も家族も、バビロンに連れ去られてしまいます。
以前の王マナセが神の目に悪を行ったのが原因です。
王ヨヤキンは家も国も奪われて?不自由な身としてバビロニアに引かれて行きました。しかも、これを決められたのは神様であると言います。
このことを、ずっとズームアウトして見るとどうでしょう。
新バビロニアに南ユダの王が引かれていく様は、人間の国に神の国が引っ張られているように見えます。
それは、神の国が罪を犯した故。そして、人間の国と呼ばれている新バビロニアの背後には、悪魔があり人間の国を装って死へと続く国であることを隠しています。
神の国にとっては、絶望的に見えるシーンです。
しかし、この絶望の淵から神様の大きな救いの業が始まります。
今は、この捕囚のシーンを歯を食いしばって見続けるしかありません。
これはあたかも、人間に対する罪の大きさをあらわしているようにも思えます。十字架の意味する死罪という側面です。
今まで、先祖から続いてきたお店の金の器も新バビロニアに略奪されます。しかし、この後の時代、イエスキリストによって活躍するのは、金ではなく土の器であることは、感謝なことです。

 
詩編77編

17大水はあなたを見た。
神よ、大水はあなたを見て、身もだえし
深淵はおののいた。
20あなたの道は海の中にあり
あなたの通られる道は大水の中にある。
あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
21あなたはモーセとアロンの手をとおして
羊の群れのように御自分の民を導かれました。

→ 主語が大水というのは、珍しい表現だと思いました。
大水が神様を見上げて身悶えし、あのエジプトから荒れ野への水の中を通る道を開いた。
人間は神様のことを、大きく評価したり小さく評価したりしますが、被造物の方が神様の偉大さをストレートに知っているのかもしれません。
大水自身がおののいて、その場を退けたというのが紅海の奇跡なのかもしれません。
イエスキリストが、嵐の海に向かって「沈まれ!」と命じたときに、
海の水が従ったのも、人間以上に海の水の方が神様をご存じだったのかもしれません。
イスラエルの民が、モーセとアロンに導かれたように、私たちもイエスキリストに導かれて日々歩む者です。ハレルヤ!

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