神の怒りの日に:聖書をめぐる旅 3/27
3/27(日)
ヨブ記が終末のへの警告、雅歌がキリストをそれを求める教会の関係という視点で見ると、またその意味も伝わってきます。
ヨブ記20章
1ナアマ人ツォファルは答えた。
5神に逆らう者の喜びは、はかなく
神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。
18労して獲たものをも呑み込まずに返し
商いで富を得ても楽しむことはない。
22豊かさの極みにあって欠乏に陥り
すべて労苦する手が彼を襲う。
23腹を満たそうとすれば
神は燃える怒りを注ぎ
それをパンとして彼に浴びせかける。
27天は彼の罪を暴き
地は彼に対して立ち上がる。
28神の怒りの日に、洪水が起こり
大水は彼の家をぬぐい去る。
29神に逆らう者が神から受ける分
神の命令による嗣業はこれだ。
→この言葉がヨブに向けられた言葉だと、かなりキツいですが、
終末に向けた預言だと考えると、確かにそのようになるかもしれません。
黙示録には7つのラッパとそれに伴う禍が記されています(黙示録8:8)。
その中の2つ目は、火で燃えている大きなものが海に落ちて、海の1/3の生き物、船が失われるとあります。
ヨブとその友の問答のようでいて、終末への預言のようにも思いました。
聖書は読みごたえがありますね。
雅歌3章
1夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
求めても、見つかりません。
2起き出して町をめぐり
通りや広場をめぐって
恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。
3わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
4彼らに別れるとすぐに
恋い慕う人が見つかりました。
つかまえました、もう離しません。
母の家に
わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
恋人を探し求める乙女の詩ですが、
イエス様を求める教会という視点で見るとどうでしょう?
夜ごとに自分の部屋でイエス様を求めても、見つからず、
夜の街で尋ねても見つからず、
しかし、さらに道を進めるとようやく見つけることができました。
イエスキリストを求める者は、必ず見出し、その人のもっとも
大切な部屋にイエス様をお迎えする。
それは、パスカルがいう人間の心の中にある、神様の形の空間なのかもしれません。
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