僕は盆踊り、君はいつかに寝息をたてる。
朝、電気シェーバーに髭を当て鳴らす音を聴きながら、いつまでも泣き止まなかった二十数年前のあの日を思い出した。外では雨が静かに降っていた。
…
「フェリーに乗る日を間違えたみたいなんだ。」
夜10時、コンビニで買い物をして帰ると、甥が僕の家のの和室にどかんと座っていて、それに「ああ、いらっしゃい」と言った僕はすこし酔っ払っていた。
今年の正月ぶりに会った甥は、正月となんら変わった様子はなかったし、フェリーに乗る日を間違えてしまったと言われてあまり驚きもしなかった。
甥は今、25歳である。
再来週から仕事で海外にとりあえず1年間行くのだという。
それで、その前に仙台の実家へ車と一緒に帰るため、フェリーに乗ることにした。僕の家で一泊してフェリーに乗る予定でいたのだが、乗る日を間違えてしまって、あえなくうちに二泊する事になった。
僕の家は間取りが2DKで、実際に使っているのはリビングと和室で、あとの一室は荷物を置く部屋になっている。だから人が泊まりに来た時はその一室を使ってもらうわけだけれど、僕は友だちがほとんどいないので、誰かが泊まりにくる事なんてそうそうない。
甥は、荷物置きのこの部屋に招待した、はじめての客人でもあるのだった。
…
きゅうりを2センチ幅くらいで切って、それを包丁の腹で軽くつぶし、それから手で半分に割る。
塩麹、金胡麻、ラー油を混ぜたタレにきゅうりを放り込んで、手でよく混ぜる。
冷蔵庫で軽く寝かせたら出来上がり。
材料は
塩麹に金胡麻とラー油を加えて中華風にすると、塩麹の優しいまろみがいい仕事をしてくれる。こういった和えものは、鶏ガラスープの粉末を入れたりするけれど、塩麹だとそれがいらない。
きゅうりをつまみに、
甥と、酒も飲んだ。
二十数年前、僕がまだ中学生で、中学校指定のジャージをよく着ていた頃、ある時、たまたま甥を僕1人でみなければならない時間ができた。
うまくあやそうと躍起になったのだけれど、甥は直ぐに泣き出してしまった。僕は甥を抱きかかえて背中をトントンと叩いたが、甥は背中をそらして全力で泣き叫ぶ。
あぁ、どうしよう。
どれだけ背中を叩いても、体をリズミカルに揺らしても泣き止んではくれない。僕の右耳のすぐ側で甥は全力で泣き叫ぶことをやめない。
僕はリズミカルに身体を揺らして背中を叩く以外に方法が思い浮かばなかった。けれど何かしないとこれは収まらないのではないかと思い、苦肉の策で背中を叩くときに「はいっ」と声を出すことをなんとか思いついた。
家中をリズミカルに身体を揺らしつつ、甥の背中を叩きながら「はいっ!はいっ!」と声を出して周り、それではどうにもならないので家の外に出て近所をリズミカルに身体を揺らしつつ、甥の背中を叩きながら「はいっ!はいっ!」と声を出して回った。
今思い返すと、あれは、
”盆踊り”だった。
…
1時間ほど盆踊りを続けたところで、甥は僕の右耳に寝息を吹きかけた。
胸の奥が安堵に包まれて、平和とはこの事かと思い知らされた。
世の中の親は、毎日こんな絶望と安堵を味わっているのかと思ったら、心から尊敬の念が湧いた。
そして同時に、僕は今、甥を通してとても尊い経験をさせてもらっているのだとしみじみと感じたのだった。
…
今日の朝起きて、米を炊いていたら、甥が起きてきて洗面所で顔を洗い、それから電気シェーバーで髭を剃り出した。
電気シェーバーに髭を当て鳴らす音を聴いて、僕はあの日の盆踊りを思い出した。
米を炊き終えて、味噌汁の鍋を火にかけた。
…
フェリーに乗る日を間違えるくらい、なんて事ない。
どんな間違いをおかしても、もしかしたら、いいかもしれない。
どんなに泣いたって、叫んだって、
僕はあなたが静かに泣き止み、
穏やかに寝息をたてることを知っている。
この、信じる力を。
あなたを信じる心を。
僕はきっと人の親になる事はないけれど、
この力と心を僕に教えてくれて、ありがとう。
そう、ささやかに、思う。
雨は午前中に止んで、
それからはすっきりと晴れわたった。
…
次の更新は10月11日(火)です。
明日また気が向いたらでも
読みに来てくださいね。
それでは、また。
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