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続・きみへ

歯を食いしばって重い石を持ち上げ、小さな壺の蓋の上に石を積み上げていく。もう積めないだろうに。それでもと意地を石に塗って、それで石と石とをくっ付け、重ねる。

石を積み上げる、きみへ。

きみ江が荼毘に付してから、あの嫁はやってきた。嫁の前には煮物が並んでいる。

きみ江は昔、あの嫁と住まいを共にしていた。あの嫁ときみ江は折りが合わず、きみ江は度々、娘である僕の母に電話で愚痴を言っていた。母はきみ江の愚痴に堪え兼ねた。どのようないざこざがあったのかは知らないが、母はきみ江を家に来ないかと提案した。きみ江は母の提案に乗り、家にやってきた。様々あったが、その大半、おおよそ8年間をきみ江はベッドで過ごした。

きみ江が亡くなる1ヶ月前からか、母はほぼ文字通りつきっきりできみ江を介護した。トイレにも行けず、日に日にあの世へと歩みをすすめるきみ江を、僕も側で見ていた。

ひとつの人生が幕を下ろす瞬間。

きみ江が亡くなる前の日の夜のことを、僕はきっと生涯忘れないだろう。

夜。きみ江の部屋にいくと窓が空いていて、カーテンが風に揺れていた。天井を見つめるきみ江に僕は声をかけた。

「ばあちゃん、さむくない?」

きみ江はこうこたえた。

「うん、さむくない。」

僕は窓を閉めて部屋を出た。

たったそれだけの会話だったが、きみ江の返事を聞いて僕は思ったのだった。

〝ああ、死ぬんだな…”

なんとなくだが、確信をもった。

翌朝目を覚ますと、きみ江の部屋から母と姉が話している声が聴こえてきた。きみ江が亡くなったのだった。母はきみ江が亡くなったことを認めきれず、姉は母に亡くなったんだよと諭していた。

「手も、足も冷たいけど、でも、まだお腹はあったかいじゃない。」

母はそう言いながらきみ江の腹をしばらく触っていた。

きみ江が荼毘に付された後、散々会いに来いと言っても聞かなかったあの嫁が、家族を連れてうちにきた。あの嫁のムッとした顔に合わせて、その娘もむっすりとした顔を張り付けている。伯父であるあの嫁の旦那は、ヘラヘラと笑っていた。

「あなた方がお婆ちゃんを殺したのよ。それですぐに焼いてしまって、私たちにお婆ちゃんを見せないだなんて、あんまりだわ。もうちょっと待っていてくれたっていいのではなかったの?」

母はそれを聴いて、黙ってテーブルに漬物と煮物を並べた。

僕はそれを聴いてガクガクと震えた。

あの嫁は煮物を一瞥すると、バッグからおにぎりを取り出し、ひとつを娘に渡し、自分の分も取り出すと、ラップを剥いて食べ始めた。

僕は堪えなければならないと思った。
震えは止まらない。

本当は…

本当なら目の前にある煮物をあの嫁にぶちまけて煮物のよそわれていた器で顔を殴り、この今あの嫁に張り付いている白々しいその顔をなくしてしまいたかった。目ん玉を抉って舌を抜いてやりたかった。強烈な怒りと憎しみが僕のなかで止まることを知らず湧いた。

何をみてもいないくせに何も知らないくせに何もみたくなかったくせに何も知りたくなかったくせに、

白々しく吠えやがって。

介護をしている母の姿、僕がきみ江と過ごした日々が頭の中でぐるぐると回転した。

僕は堪えなければいけない。
きみ江との日々を、汚されたくないと思った。

母は黙って煮物を下げた。

その日から、りんごの入ったカゴに添えてある果物ナイフをみると、あの嫁を思い出すようになった。りんごをむいてから果物ナイフを鞘にしまって、ズボンのポケットに入れてみた。りんごをしゃりしゃり食べながら、やはり堪えなければと思いナイフをカゴに戻した。電車に乗ってあの嫁のところに向かおうと、駅まで行ったがやはり僕は堪えた。

殺しに行こうと何度も何度も考えては、堪えた。

何度も、何度も思い、堪えた。

憎しみの壺はとても小さい。

小さい壺に蓋がされ、蓋の上にはたくさんの石が積み上げられた。

小さな壺に、石は何故こんなにも積み上がるのか。どのようなバランスを保っているのか不思議に思う程だが、そうしなければならない理由があった。

憎しみの蓋を開けようと魔が刺す度に、僕はそれを堪えて石を乗せていった。

あれ以来、あの嫁には会っていない。会いに行っても姿を決して見せない。あの嫁は、現在どんな顔をしているのだろうか。もう23年も経っている。あの嫁の娘も姿を見せない。娘は結婚し、子どもを産んでいた。その子は酷いアレルギーで、アトピーも酷く、食材を細かくチェックし気をつけなければ命に関わるそうだ。ちらりと写真を見せてもらったが、それをみて僕は、この子は煮物を食べられるかなと思った。我ながらそれはひどい考えだと思ったが、それを取り消すことはできなかった。

それが、本心だからだ。

あの嫁さえいなければ。
23年間ずっとそう思ってきた。


そうおもってきたのに、なのに先日、ふと気付いてしまった。

〝あの嫁がいなければ、きみ江はうちに来なかった。”

きみ江と過ごしたかけがえのない時間は、あの嫁によって与えられたのだった。

ふと気付いたことから、憎しみの壺に乗った石が、ひとつ、またひとつ落ちた。意地の粘着力が失われ、それから石はガラガラと崩れ、壺には蓋が覆われるのみとなった。

何もみていないくせに。
その言葉に蓋がカタカタと反応した。

何も知らないくせに。
その言葉が壺にある憎しみの液体を溢れさせた。そのうち周りはどろどろとした液体で洪水になってしまった。

何もみたくなかったくせに。
何も知りたくなかったくせに。

どろどろとした液体に僕は首まで浸かっていた。そこで液体から声が聴こえた。

〝たすけて”

僕は僕の憎しみを全て受け止めてみた。

その憎しみは悪くないものだと思った。決して悪くない。僕はきみ江を殺してなんかいない。母も悪くない。うちに来たきみ江も悪くない。

みんな、無罪じゃないか!

きみ江とともに過ごすことができてよかった。
たくさんの事を経験させてくれて、何より僕を愛してくれた。

だから、きみ江を追いやったあの嫁は、悪くない。むしろ感謝すべきだ。

きみ江も僕も母もあの嫁もみんな、無罪だ。

いつの間にか水は引き、壺の中はカラになった。

石を積み上げている、あの日のきみへ。
堪えてくれて、本当にありがとう。
その意地を、全て認めて溶かす日がやってくるから、存分に堪えていいよ。

どれだけ憎んだっていい。
それもきみの大切な感情のひとつだから。

『日溜り』

きみ江が残した歌句集のタイトルだ。人生の最期をベッドで過ごしたきみ江は、まさに僕の日溜りであった。

昼下がり、布団に寝そべってみる。天井をしばらく見上げて、それから僕はつぶやいた。

「うん、さむくない」

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