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29歳、大人ではない。

noteの最終更新、2020年からまる4年経った。


ちょうどコロナで世界がおかしくなる直前が最終更新日付。
よく体調を崩しがちな我が家は、コロナがニュースで取り上げられ始めたころ、「これはいけない!」と人一倍センシティブになり、優等生ばりに外出自粛。一方でネタもないのでもちろんnoteも更新せず、今日まで来た。
よくよく思い返せば、予約制の美術館だったり、舞台だったり、コロナ禍の混乱の合間を縫って観に行っていたのだから、感想くらいしたためればよかったのである。
単純にnoteのこと忘れていた、といえばそうだ。三日坊主にも満たない、たぶん怠惰。


さてこの4年間、コロナで対外イベントが減った割に、わたしの人生は激動だった気がする。
手に入れたものもあれば、同時に失ったものも多かった。

まず前記事でピッピ呼びしていたお相手とはコロナ期間中にお別れした。そこからパートナーを作ること自体が億劫になってしまい、現在も楽しくフリーを謳歌している。
会社で出会ったたくさんの素敵な人々の門出を祝った。みんな晴々した顔で会社を辞めていくのでちょっと寂しい。
素敵な友人たちの、涙の止まらない結婚式もたくさん見守った。直近で親友が結婚して、お祝いしたい気持ちと共に、本当に心から大好きな友人なので旦那にジェラった。が、ちょうど先日、友人と旦那と3人で過ごす機会があり、まざまざと敗北を味わったので、泣いている。
好きなミュージカル「エリザベート 」を3回も観に行った。歴史に翻弄されたエリザベート の姿は見ているだけで辛い。最後エリザベート がトートを受け入れるシーンで号泣することが恒例になっている。直後、一緒に観劇した友人にマシンガン考察トークをかまし、情緒不安定すぎないか?と毎度心配される。(エリザベート はわたしの中の最高傑作なので、いつかノートに全てを語ろうと思う。)
コロナの機会にたくさん美術館に行った。印象派によく触れた。日本画にも挑戦して、解説を読みながらなんとかくらいついてみてみた。派生してお寺とか、神社とか、仏像とかいろいろみた。次は彫刻や陶磁器に幅を広げていきたい。
上司に恵まれて、社畜を深めた。自分なりに頑張った成果も出て、仕事楽しい!最高!天職!と浮かれていた。するとありがたいことに昇進し、チームメンバーが出来た。昇進したら輪をかけて激務になってしまい、こんなはずでは…と頭を抱えている。
新しい推しと出会った。推しをちょっとでも多く観たくて大金を払ってみたりした。日本ライブでは飽き足らず、韓国に、タイにフットワーク軽く飛んだ。オンラインサイン会なるものにも挑戦してみた。おかげでアイドル頻出単語の韓国語くらいは分かるようになった。最近はちょっと落ち着いた。


ざざっとこの4年間を書き出してみたが、結構楽しいことばかりである。前述した失ったものってあったかな、と思うほど(実際書いてないだけで、あることにはある、と思う)。
コロナなりに人生を謳歌する術を見つけていて、我ながら何事も楽しむやつだな、とちょっと感心した。



一方で、最近とくに感じるこの焦燥感や虚しさってなんだろう。

思えば、この4年間、"自分"を満足させるための活動はたくさんしてきたが、"誰か"のために動くことがほぼなかった。
仕事や家族、友人とのやり取り上、こちらから働きかけることはあるものの、その人がより良くなるために、傷ついたり苦労してまで起こしたアクションは、ない。

そこまでやってあげようと思える相手がいなかったといえばそうであるが、そう思える相手を作らなかった、というのも事実だ。
故意的に作らなかったのか、作れなかったのか、はさておき。この決して短くない4年という歳月の中、自己中心的な行動しか取れなかった、というのはなんだか寂しい事実な気がした。29歳という年齢を迎え、何かあるべきものが欠けているのではないか?と不安にもなる。


いきなりだが、最近QuizKnockにハマっている。彼らの動画で、誰でも知っている文豪の小説内の「名文」の一部を空欄にして出題し、空欄に入る言葉を推測する企画があった。
なんなら、文豪を超える「名文」を作ってみよ、というチャレンジャーな企画だ。

わたしが記憶に残った一説は、太宰治の『津軽』である。小説自体の詳しい内容は省くが、出題内容は以下だった。

人は、あてにならない、といふ発見は、
青年と大人の移行する第一課である。
大人とは、[ ? ] の姿である

太宰治『津軽』より

先に正答を記載すると、
大人とは、[ 裏切られた青年 ] の姿である
と太宰治は表現した。

太宰治は、青年と大人の明確な違いとして、約束の反故や寝返りなどの人間同士の醜いやり取りを体感したかどうか、と定義した。裏切られたという経験の先に、人を信頼せず一人で生きる力を持つことが大人、ということかな?と小説も読まずに解釈するが、なんとなく腑に落ちなかった。
もちろん小説なので、彼が描きたかったストーリーに沿った定義であることは間違いはない。太宰治が、真に大人とはこういうものだ!と思って記載したとも限らない。が、視聴しながら「大人ってそんなもんだっけ?」とはてなマークは消えなかった。


30歳間近の成人済み女性であるが、わたしは自分のことをまだ"大人"だと思っていない。

成人である20歳を迎えてから9年経つのに、いまだに感情優先のハッピーハッピー野郎である。大好きな両親に変わらず甘えているし、悲しい時はとにかく泣いて周りを困らせるし、やりたくないことは可能な限りギリギリまでやらないようにしている。最終的にやるんだけども。

それなりの分別と知識を武装したこども
わたしが認識するわたしだ。

上記のように自分のしたいままに生きることが、心のどこかで大人ではないと思っていて
たぶんまだ大人になりたくないとも思っているのだと思う。

"大人"と呼べる人間はきっと一握りで、ほぼみんなこどもか、良くて青年なのである。
わたしの尊敬するニュージランド人の元上司は、本当に"大人"だった。
詳細は伏せるが、年齢も大きく変わらないのに、部下一人一人を真剣に見つめ、仕事だけでなくプライベートの可能性をも尊重し、どんな時でも積極的に動いてくれる人だった。文章にすると絶妙に陳腐になってしまう自分の語彙力が恨めしいが、彼女は相手のために尽くせる、わたしの理想の"大人"である。


だから、わたしが空欄に入れるならば、
大人とは、[ 自己犠牲を厭わない精神 ] の姿である
になると思う。

相手を信用するとか、しないとかじゃない。
ただ、相手のことを想って最善を考えて尽くしてあげられる人、それが"大人"だ。

文章にしながら「そんな善人この世にいるのか!?」「自分の人生だから自分が1番では!?」と疑念に駆られているが、当たり前ながら、そんな人そうそういない。
残念ながら、わたしも29年この世を積み重ねているのに、まだまだその境地には程遠い。まだ自分が最優先で、辛いことより楽しいことだけやっていたい。

しかし、悲しいかな状況は待ってくれない。
わたしも早急に、"大人"にならないといけないタイミングが来ている。会社での立場だったり、今後のライフステージだったり。


はぁ、アラサーってどうしてこんなに考えることが多いんだ。

みんなも同じように苦しんでいるのだろうか。
偉人たちもこんな悩みにぶち当たってきたのだろうか。
伝記でも読もうかな。きっと早急に読むべきは、太宰治の『津軽』だとは思うのだけど。


いつか自分が「大人になったな〜!」と感心する日が来るのだろうか。
それは、わたしにとってハッピーな人生なのだろうか。

もうちょっと悩んでみようとも思う。


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