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【第59回】改めて表現の自由とは何を保障しているのか⑪ 知る権利 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

知る権利の問題に戻ってきました

知る権利との関係でわき道にそれて行ってしまいました。しかし、これまで見てきたように、19世紀的には表現の自由といえば、「送り手」にかかわる問題であったのに対して、現代では「受け手」の問題が重要であることはご理解いただけたのではないかと思いますし、何より「受け手」問題をクローズアップさせることになったのは、メディアの発達だったといっていいでしょう。

国民主権との関係

「送り手」と「受け手」の乖離ということは、国民主権との関係でも重大な問題が起こります。

ルソーが、社会契約によって政府を構成したのであるから、政治の在り方は自分たちの手で決めなければならない、政治の担い手は全体としての人民である、と主張した時代には、「送り手」と「受け手」は分離していませんでした。お互いに、送り手になることもあれば、受け手に回ることもあったわけです。

しかし、巨大メディアの出現は、主権者である国民のほとんどが「受け手」であることが自覚されるようになるわけです。

ロックやルソーなどが考えた民主主義的な社会というのは、送り手、受け手双方が自由に議論を行い、誤った考え方などは淘汰され、その時点で多数の人々が納得した政策を政府が遂行する、その正当性を担保するのが選挙である、というモデルだったのではないでしょうか。その前提としては、政府に都合の良い情報だけでなく、都合の悪い情報についても共有し、「送り手」「受け手」という一方的な立場に置かれることなく、お互いの意見を闘わせることができるということが必要なはずです。

そこで、国民は主権者としての立場から、国に対しては国政に関する情報を公開することを請求することが「知る権利」として構成され、メディアも、この「知る権利」を充足させる機能を持っているのだ、ということが認識されるようになったというわけです。

作為を請求権する性質

表現の自由の保障を定義すると、情報収集、情報提供、情報受領の各過程が公権力によって妨げられないことだとしました(第49回)。そして、情報を収集した行為について、取材源を明かすように強制されないことについても検討してきました。

取材源の秘匿は、言い換えると、将来の情報収集が公権力によって妨げられないために、取材源を明かすことを強制されないことの保障を意味しています。この局面では、公権力に対して「不作為」を求めるものです。

これに対して、同じ情報の収集の局面であっても、国に対して「知る権利」を主張するということは、法律的な概念に当てはめると、国が保有する情報を公開せよ、という「作為」を請求することを意味しています。

自由権と社会権のところで触れましたが、国に対して、不作為を要求する場合は、国の作為を違憲・無効であるとすれば、原状が回復されますから、権利の救済はそれで実現されます。ところが、作為を請求する場合には、国の不作為を違憲・無効としたところで、目的は実現できません。
「知る権利」が憲法第21条に根拠を有するものであるとしても、法律によって開示基準や、国民に対する開示請求権が定められることが必要です。

1999年、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」いわゆる情報公開法が成立しました。

この情報公開法、法形式としては憲法ではなくて、法律ですが、憲法第21条から導かれる、「知る権利」を具体化するために作られたのだ、ということは強調しておきたいと思います。つまり、形式的意味の憲法ではありませんが、実質的意味の憲法を構成する法律にほかならないということです。
情報公開法の意義について、少し掘り下げてみたいと思います。

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