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【第52回】改めて表現の自由とは何を保障しているのか⑤ 知る権利 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

新作落語?

落語ファンであればだれもが知っているといっても過言ではない「試し酒」という演目があります。落語ファンでなくても聞いたことがあるかもしれません。それくらい有名なお話です。先代の柳家小さん師匠(五代目。柳家花緑の母方の祖父)の高座でなじんでいたものですから、てっきり古典落語だと思っていました。

テレビを見ていたら、劇作家の方が、「これは比較的古い新作落語でして」という解説をしていて、新作落語だったのか、ということに驚いたのと同時に、「古い」新作落語、というのが面白く感じられました。考えてみれば、噺家は昔から昔話をしていたわけではなくて、もともとはすべて新作の話で、名作とされたものが語り継がれて古典落語になっているわけで……

新しい人権?

LGBTの人権や、忘れられる権利(right to be forgotten)が議論されている現在においては、こんなマクラでも置かないと、知る権利を「新しい人権」として紹介するのはバツが悪い気がします。「知る権利」というのは、法律を勉強した方ならだれもが知っていて、法律を勉強したことがなくても聞いたことのあるという点が、「試し酒」に似ています。なので、比較的古い「新しい人権」なのだ、ということでご理解いただきたいと思います。

「知る権利」に言及した、と紹介した最高裁決定は昭和53年のものでした。最高裁が言及するくらいですから、それよりはるか以前から主張されていた権利ということができます。まずは、「知る権利」が主張されるようになった背景について探ってみたいと思います。もしかするとそこに、現代のSNSをめぐる問題のヒントがあるかもしれません。

かつては「送り手」と「受け手」に立場交換可能性があった。

表現の自由は、「送り手」と「受け手」があって成り立つものでした。そして、近代市民革命時には、だれもが「送り手」の立場になりえた時代だったといえます。バスティーユ牢獄の襲撃を伝える新聞はあったかもしれませんが、まだ瓦版の域を出ていなかったはずです。

もちろん、すでに資本家と呼ばれる人々はは登場していましたし、一庶民が瓦版を発行するといってもそう簡単なことではないかもしれませんが、メディアと言ってもラジオもテレビもない時代です。どうしても何か伝えたいということであれば、手書きのビラを配布することもそれなりにインパクトのある方法だったといえます。

ところが、産業の発達とともに、企業も巨大化していきます。独占が進む過程で、スタンダード・オイル社がどんな手を使ったか、ということについて以前お話ししました(第11回)が、メディアの世界も例外ではありません。巨大メディアの登場とともに、情報の「送り手」と「受け手」は分離し、固定化されてしまいました。

さらに、時としてメディアによる人権侵害が問題となります。これまで見てきた、名誉権やプライバシー権の主張も、表現の自由との関係では、大手新聞社や出版社さらにはテレビ会社を相手として裁判となったものがほとんどです。大手メディアも国家と同じような人権侵害の主体となりえると批判され、ネガティヴな意味で「第四の権力」と言われることもありました。

今では「知る権利」という言葉は普通に使われますが、これも机の上で考え出されたのではなく、このような歴史的背景のもとで主張されたて来た権利ということができます。

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